<マスコミの使命>

pressココロ上




先週は雪に見舞われて大変でした。東京でもあれほど雪が積もったのは久しぶりで雪に弱い都会を実感した次第です。今回の前に雪が積もったのがいつか記憶が定かではありませんが、そのときに思ったことと同じ思いを今回もしました。それは「思いのほかコミュニティが働いている」という思いです。最近は隣近所の付き合いが希薄になり地域コミュニティが弱くなっているとまたは崩壊しつつあると言われていましたが、実際にはきちんとコミュニティが働いていると感じました。
それを実感したのが除雪です。我が家の周りの道路は雪が積もった翌日にほとんどの家の人が出てきて道路の雪を端に寄せていました。ですので1時間もしないうちに家の前の道路は車で普通に通れるような状態になっていました。そして、それは私の家の近所だけではなく車で出かけたところの約8割のところで雪はきれいに端に寄せられていました。
もちろん、中には除雪をしていない家の前もありましたが、それは少数で高齢者だけが住んでいるとか余程の変わり者が住んでいるとか、そのような特別な理由や背景があるところのように思います。そうした光景を見ましたので「日本もまだ捨てたものではない」と感じた次第です。
人間は「一人では生きていけない」といいますか、生きていても意味がありません。いろいろな人と接することで生きていることを実感したり生きている意味を感じたりします。そうしますと自ずと集団ができますが、この集団がやっかいです。集団の力の大きさによって個人の存在感が弱まることもあるからです。つまり集団に合わせて生きることを強制されることですが、そうなりますと個人が自分の好きなように生きること、生活することができない状況になることもあります。これはとても恐ろしいことです。
かつて日本が戦争をしていたとき、周りの人と同じ考え方を持っていないと「非国民」と罵倒されていました。個人の存在感など無に等しかった時代です。このような時代が「生きていてよかった」と思えるはずはありません。個人が「生きていてよかった」と思える社会を作ることが社会の使命でなければいけません。社会あっての個人ではなく個人あっての社会が理想です。
このように口で言うのは簡単ですが、個人と社会のバランスを取ることは簡単ではありません。簡単にできるなら世の中から争いごとなどとっくの昔になくなっているはずです。誰かの利益は別の人の不利益です。
沖縄が一番わかりやすい例です。沖縄に米軍基地のほとんどが集まっていることで本土の人たちは日々の不安を感じることなく生活できます。本土の利益は沖縄の不利益です。大切なことは利益を得ている人が不利益を被っている人に対して慮る気持ちを持つことです。しかし、残念ながら本土の人たちは沖縄の不利益に対して関心度が低いように思います。平和な社会は最終的には個人個人の思いが集まることでしか成就できません。
僕は保守でもリベラルでも護憲派でも改憲派でもありません。ただ公平で平等な世の中になればいいのになぁ、と思っているだけです。しかし、ことは簡単ではありません。憲法改正の動きが強まってきていますが、結局は個人個人の思いに委ねられることになります。そのときに大切なことは個人個人がどれだけきちんとした知識や情報を持ち、そして考えるかです。
ネットで憲法改正について検索しますといろいろな考えの方がいることがわかります。賛成派と反対派で意見が違うのは当然ですが、賛成派の中でも様々な意見があります。僕のコラムを読んでくださっている方は若い人が多いと思いますのでザックリと今の状況を説明したいと思います。
まず安倍首相は「なぜ、憲法改正を望んでいるのか?」ですが、真意は安倍首相の心の中ですので安倍首相しかわかりません。もしかすると夫婦ですので昭江夫人はご存知かもしれません。なにしろ外遊のときに仲良く手をつないでタラップを降りてくるのですから心の中を話している可能性もあります。
それはともかく真意はわかりませんが、巷間言われているのは
・憲法が米国のお仕着せだから
・命をかけて国を守っている自衛隊員のために自衛隊の存在をきちんと明記したいから
・国際貢献のために自衛隊を派遣することを実現したいから
です。
これらが改正の目的ですが、今大手新聞やマスコミで報じられていますのは「憲法9条2項」という文言です。では憲法9条を書き記します
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
「憲法9条2項」とはこの「2」のことですが、リベラル派と言われる人たちの一番のよりどころはこの「2項」です。リベラル派とは戦争反対、改憲反対の人たちです。これがあるからこそ日本は戦争に直接加わることなく国際社会を生きてこられたわけです。ここに「2項」の重要性があります。
憲法改正をする方法としてはこの条文を書き換えるという方法もありますが、それではリベラル派はもちろん政治にあまり関心のない人にも刺激が強すぎます。やはり日本で育った人は政治に興味はなくとも漠然と「憲法9条は平和憲法の象徴」という意識を持っています。ですので刺激を弱めるために「1項」「2項」はそのままにして新たに「3項」を加えるという方法が編み出されました。
ですが、この方法に対して反対している改憲派の人もいます。理由は「現行憲法では、集団的自衛権を発動させることには、ムリがあるから」というものです。憶えているでしょうか、憲法審査会で憲法学者全員が今の自衛隊は憲法違反であると主張しました。つまり、「1項」「2項」を残したままでは憲法改正したことにはならないと考えているからです。やはり憲法改正は一筋縄ではいかないようです。
憲法改正につきましてはマスコミでも取り上げていますが、報道に仕方で昔と一番違うのは中立性です。昔に比べますと格段に自分たちの主張が強くにじみ出ているような報道の仕方になっています。僕はこうした風潮を不安に思っています。マスコミに勤めているような人たちは一般の人よりも聡明ですし、そのうえに知識も豊富です。そうした人たちでさえ考え方が異なるのです。ですので自分たちの考えが正しいとは限りません。これはマスコミに限ったことではありません。大学の教授の方々にしてもいろいろな考え方の人がいるのです。これはつまり正解がないことの裏返しでもあります。
そうしたことを前提にするなら自分たちの考えを土台にした報道の仕方は控えるべきです。報道はできるだけ中立であることがマスコミの使命であると僕は思っています。かつて新聞は「社会の木鐸であれ」というのが基本でした。「木鐸」とは「社会を導く人」という意味ですが、各社によりいろいろな主張が存在する中ではどれが正しいのかわかりません。新聞が社会を導くのは現実的はありません。
なので、新聞は「公平で中立であれ!」が僕の主張です。
じゃ、また。

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