<指導者>

pressココロ上




僕は今、庭師のような仕事もしているのですが、ある日集合住宅のベランダ側にある植栽を整えていました。すると、2階のベランダのほうから怒鳴り声が聞こえてきました。それはそれはすごい剣幕で怒鳴っているのですが、よくよく聞いていますと
「なんで、1(いち)と6/6(ろくぶんのろく)がおなじだってわからないの? おかしいでしょ!」
怒鳴り声の主は女性です。僕の推測ではお母さんが低学年の小学生に算数を教えているようでした。僕からしますと不思議でしかないのですが、ずっと怒っているのです。このように怒られながら教えられては、恐怖心でわかるものもわからなくなります。
ときたまお父さんらしき人の声も聞こえてきましたが、お父さんの話し方は言い含めるようにやさしく穏やかな声でした。お父さんがそうであるだけに、お母さんのヒステリックな声が強く印象に残りました。男女差別と言われそうですが、女性はすぐに感情的になる傾向があるように思います。あのお子さんは大丈夫だったでしょうか…。
実は、僕にも同じような経験があります。僕の場合は国語だったのですが、小学生の頃に母親が僕に勉強を教えている光景が今でも思い出せます。母もとにかく怒っていました。僕ができないことがよほど頭にくるようで、頭ごなしに怒鳴っていました。一応断っておきますが、普段は優しいお母ちゃんでした。一人息子の僕でしたのでとてもかわいがってくれていました。そのお母ちゃんが勉強を教えるときだけ怒り狂うのです。
一番印象に残っているのは「新聞」という漢字です。僕が「新聞」という漢字がわからないでいると、「朝刊を持って来なさい!」と命令しました。そして、「ほら、よく見て!」と怒るのです。僕としては、恐くてどこを見てよいのかわからないのですが、そうした僕の反応がお母ちゃんにはまた苛立つようで「このバカ! 書いてあるでしょ!」と怒るのです。しかし、僕はやはり恐怖心でどこを見てよいのかわからないのです。業を煮やしたお母ちゃんは我慢できなくなったようで人差し指で新聞の上のほうに書いてある「〇〇新聞」の文字を指して「ここでしょ! なんでわかんないの!」とのたまうのでした。僕の幼少時の悲しい思い出です。
車の運転をするときだけ人格が変わる人がいます。普段は温厚で優しい人がハンドルを握ると性格が一変するのです。理由はわかりませんが、エンジン音がなにかを変えるようです。本来、このような人は車の運転には不向きです。車は使い方を間違えますと、凶器になりますのでこのような人は間違いなく車を凶器にしてしまいます。ハンドルを握ってはいけない人です。
同じことが、教える立場にいる人にも当てはまります。教えているうちに自分を見失うのです。先ほどのお母さんもそうですし、僕のお母ちゃんもそうです。このような人は教えることに向いていませんので教える立場になってはいけません。
しかし、世の中はすべて理想どおりにいくとは限りません。また「教える」ことに対する理解が社会に浸透していないという現実があります。今年に入りスポーツ界で起きているたくさんのパワハラ問題はまさしく「教える」、言葉を変えるなら「指導する」もしくは「コーチング」の重要性を認識していないことが原因です。
昔から「名選手、名監督にあらず」と言いますが、これはコーチにも当てはまります。名選手が教え方もうまいとは限りません。場合によっては、自分のやり方を無理やり押しつけるという弊害を生むこともあります。名選手になった人が成績を残せたのは当人の肉体や精神的な要素があってこそです。それらの要素が全く異なる他人に当てはまる保証はどこにもありません。それを理解せずに、教えたり指導されてしまっては教えられるほうは溜まったものではありません。
野球界における指導者と選手の対立について、僕はこれまでに野茂英雄投手と鈴木啓二監督の軋轢を紹介したことがあります。しかし、今の若い人の中には知らない人も多いので今回は菊池雄星投手と大久保博元コーチの軋轢について紹介したいとも思います。
事件が起きたのは2010年です。今では菊池投手はライオンズの立派なエースですが、当時はまだ2軍で練習していました。大久保コーチはそのときの2軍のコーチだったのですが、そこで大久保コーチが菊池投手に暴行したことが写真週刊誌に報じられ、大久保コーチは解任されました。
球団の対応を不服とした大久保氏は裁判まで起こすのですが、裁判の最中に「自分に非があること」気づき、裁判を取り下げました。そして、2016年に大久保選手が直接菊池投手に謝罪し、二人は和解をしています。僕は元々大久保選手に好感でしたので事件が報道されたときは残念な気持ちになりましたが、そのあとの展開を知って喜んでいます。
実は、この話にはあと一人重要な人物がいます。それは当時のライオンズの監督だった渡辺久信氏です。渡辺氏は監督を退任後、ライオンズのフロントに入っていますが、大久保氏と菊池氏の和解を取り持ったのは渡辺氏でした。
解説者となっていた大久保氏がライオンズに取材を申し込んだときに、渡辺氏が「菊池に謝ってくれないか?」と打診したそうです。大久保氏は快諾し、お互いが謝罪をして和解を果たすことができました。おそらく渡辺氏は二人の関係をずっと気にしていたのでしょう。僕はそこに渡辺氏の人格の素晴らしさを見ました。
渡辺氏は現役時代にエースとして大活躍もしましたが、取りてて素晴らしい記録を残しているわけではありません。渡辺氏は台湾球界でも活躍しているのすが、俗な言い方をしますと苦労をしています。渡辺氏の素晴らしい人格はその苦労から培われたと僕は思っています。
大久保氏は裁判をしている中で自分を見つめなおすことができ、自分の至らなさに気がついたからよかったですが、未だに監督またはコーチという立場の本当の役割を理解せずに指導者の立場にいる人がいます。指導者は自分の考えややり方を押しつけるのは仕事ではありません。指導者は選手の力を伸ばすのが仕事です。それを勘違いしてしまいますと、本来なら逸材であるはずの選手が力を発揮できないことになります。
コーチについて考えるとき、僕はメジャーで活躍している大谷翔平選手を思い浮かべます。大谷選手には特別なコーチ、つまり師匠のような存在はいないように見えます。練習はすべて自分で考えコントロールしているようです。なぜなら、メジャーへ行っても活躍しているからです。そして、このことは現在メジャーで活躍しているすべての日本人選手に共通していることです。特別なコーチがいるわけではなく、自分で練習のやり方をコントロールしています。コーチに無理やり練習させられているのではなく、自ら考え自ら管理している姿勢が共通しています。
成功している選手はコーチなどの力に頼らず、自分で練習を管理しています。こうした事実を見ていますと、細かいことまで教えようとするコーチは必要ないということになります。指導者になろうとする指導者ほど迷惑な存在はありません。現在、指導者の立場にいる人はそのことを理解することが必要です。
実はこれって、すべての業界に当てはまるんですよ。どの業界にも上から目線で偉そうに振舞っている人っていますよねぇ…。
じゃ、また。




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