<「喝」は簡単じゃない…>

pressココロ上




野球評論家の張本勲氏があるテレビ番組での発言が物議を醸しています。内容は甲子園の予選大会での監督采配に関してです。岩手県大船渡高校の佐々木投手は160キロ超のスピードボールを投げることでマスコミから注目されていました。その佐々木投手を予選の決勝戦で登板させずにチームが敗退したことに対して批判していました。

監督が佐々木投手の登板を回避したのは佐々木投手の肉体的負担を考慮したからです。しかし、張本氏はチームメートの気持ちや応援してくれる人たちなど総合的に判断するなら「登板させるべきだった」と批判しました。

これまでも張本氏は過激な発言でネットを騒がせたことがありますので、この過激な発言自体はそれほど珍しいことではありません。これまでを振り返りますと、時間が過ぎるとともに収まっていくのが通例でした。

しかし、今回は物議が簡単に収まりませんでした。その理由は、張本氏の批判に異論を唱えたのがメジャーリーグのダルビッシュ投手だったからです。さらにサッカーの長友選手までもが続きましたので騒動がより一層大きくなったように思います。

もちろんダルビッシュ投手も長友選手も監督采配を支持しているのですが、この騒動を見ていて僕は野茂投手がメジャーリーグに移籍したときのことを思い出しました。

野茂投手がメジャーリーグに移籍したきっかけは当時の監督鈴木啓示氏の指導法に納得がいかなかったからです。鈴木氏も張本氏と同様、昭和を代表する名選手の一人で通算勝利数歴代4位を誇る名投手でした。

昭和を代表する名選手たちには練習に対して共通する思いがあります。それは「とにかく走れ!」です。足腰を鍛えることが野球のすべての基本と考えていましたので、調子が悪くなると「走り込みが足りないから」と「走り込み」を命じていました。

昭和の名選手たちにあと一つ共通しているのは「根性主義」です。根性さえあれば「なんでも成し遂げられる」と思い込んでいます。自分たちがそのようにして成功してきた経験がありますので、その成功体験から抜け切れないのです。

「根性主義」などと言いますが、昭和時代の野球は豪放磊落な面もありました。例えば二日酔いの状態で「ホームランを打った」または「完封した」などという自慢話も聞こえてきました。イチロー選手が聞いたら怒りそうな試合に臨む姿勢です。しかし、考えようによっては「二日酔い」の状態でも仕事だけはきちっとしたことになりますから、根性主義に通じるものがあるのかもしれません。

ですが、少し角度を変えるなら野球のレベルが低かった証拠ととれなくもありません。なにしろ、二日酔いの状態でも活躍できるのですから全体のレベルが低かったに違いありません。

それはともかく、野茂投手は鈴木監督の「とにかく走れ」指導に納得しませんでした。野茂投手は日本で科学的トレーニング法を取り入れた第一人者でもありますが、スポーツトレーナーを取り入れた草分け的選手でもあります。鈴木監督は野茂投手のそうした科学的トレーニング方法が気に食わなかったのかもしれません。

結局、野茂投手は日本の野球界にいられなくなり、メジャーリーグに挑戦するのですが、その時点ではほとんどのマスコミが野茂投手に対して批判的に報じていました。のちにメジャーリーグで大活躍をしたことで、日本のマスコミは手のひら返しをするのですが、野茂投手が日本のマスコミに不信感を持っても当然です。

野茂投手には思い入れがありますので、つい長く書いてしまいました。本題に戻ります。

監督采配です。おそらく近年のスポーツ選手から意見を集いますと100人中100人が張本氏の意見に反対するはずです。選手の肉体を壊してまで勝利を求めるのは、今の時代は通用しません。選手があってこそのチームです。

ここで話が展開するのですが、それは「チームと個人の関係性」です。「個人を優先させるためならチームについては考慮しない」でいいのか。佐々木投手が登板回避をしたことはまさしくこれです。「チームが敗退しても仕方ない」という論理です。

ここでさらに話は展開します。「送りバントの是非」です。実は今回コラムを書くにあたり、いろいろな記事を読んでいて思い出したのですが、昔は「送りバント」ではなく「犠牲バント」と言っていました。平等精神が広まっていく中でいつしか呼び方が変わったようです。

どちらにしましても、走者を進めるために自ら進んで「アウト」になるのですから「個人よりもチームを優先させたこと」になります。先ほどの監督の采配とは反対の選択です。もちろん投手の選手生命にかかわる判断と一時の作戦では重みが違いますが、個人よりもチームの勝利を優先させたことには違いがありません。

もしかしたなら「送りバント」をする選手が人生で最初で最後のバッターボックスという場合もあります。それでも「送りバント」を命じるのでしょうか。チームの勝利のために個人が犠牲になるしか方法はないのでしょうか。

憶えている方もいるでしょうが、以前「置かれた場所で咲きなさい」という本がベストセラーになりました。細かい内容までは忘れてしまいましたが、そのとき自分がいる場所で一生懸命努力することの大切さを書いている本だったように思います。しかし、置かれる場所を自分で決めることの大切さを説いている本もあります。

もうすぐラグビーのワールドカップがはじまりますが、ラグビーには「One for all, All for one」という格言がありますが、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」という意味だそうです。僕は、以前なにかの記事で「一人はみんなのために、みんなは一人のために」と説明している文章を読んだ記憶がありますが、これですとなんとなく矛盾を感じていたのですが、「一つの目的のために」が正解だそうで、これですと論理的につながる説明です。

論理的にはつながったとしても、感情的には納得しがたいものがあります。なぜなら、個人が「ないがしろ」にされているからです。簡単に受け入れるわけにはいきません。この発想を日本という国に当てはめるなら、「国家が成り立つために個人は我慢すべき」ということになります。そして、この発想の行き着く先は「優生思想」です。

世の中が優生思想で覆われていていいはずがありません。差別が横行する社会が幸せな世界であるはずがありません。

でも、チームが勝つためにはだれかが犠牲になるしか方法がない、と言われたならみなさんはどのような決断をするのでしょうか。

そんなことを考えた暑い昼下がりでした。

投票率、50%を切ったんだよなぁ。

じゃ、また。




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