<新聞と社会の木鐸>

pressココロ上




かつて新聞は「社会の木鐸たれ」と言われていました。「社会の木鐸」を辞書で調べますと「世の人々を目覚めさせ、教え導く人。」などと説明してありますが、言いたいところは、「新聞の影響力によって、社会を安全で平等で平和にするように導く」ことのようです。それが可能だったのは、新聞の影響力が強かったからで、さらに影響力が強かったのは、販売部数が世界一だったからです。

しかし、その影響力も弱まってきています。理由は販売部数が激減しているからにほかなりません。僕が新聞を取らなくなって1年ほど経ちますが、生活に困ったことはありません。その一番の理由は、やはりネットの普及です。

よくインターネットばかりを利用していることの弊害として、「自分が関心のあることにしか情報に触れない」ということが指摘されます。しかし、ネットサーフィンという言葉があるように、ネットをサーフィンすることは、いろいろな世界を見ることです。ネットを利用していますと、自然に「自分の関心以外のこと」にも、触れる機会が多くなっています。

僕が新聞購読をやめてから、これまで購読していた新聞販売所の方が勧誘にきますが、その方々の話を聞きますと、購読をやめている人はかなり増えているようです。購読をやめて半年が過ぎたころに、無料で一週間新聞を配達してくれたことがありました。配達の人が間違えたのかと思い、問い合わせたところ「サービス」とのことでした。新聞に触れさせるむことで、「新聞を読みたくなる」気持ちにさせる作戦だったようです。

無料で配達するのですから、かなりの出血サービスです。それくらいにことをしないといけないほど販売所は追い込まれています。前にも書きましたが、僕の周囲の販売所は統合されています。それだけ密度が薄くなっていることの証拠だと思いますが、新聞販売業は間違いなく斜陽産業になっています。

あまり知られていませんでしたが、10年くらい前まで新聞販売業はそこそこの「儲かる業種」でした。下手にフランチャイズでラーメン店を開業するよりはリスクが少なく高収入を得られていました。当時は最低でも年収800万円くらいはあったはずです。売り上げではなく所得です。

最近はコンビニ加盟店のデメリットが指摘されることが多いですが、そのデメリットの一つにドミナント戦略があります。これは「攻める地域を特定し、その特定した地域内に集中して店舗を出店する」チェーン理論のことですが、「これにより、経営効率を高める一方で、地域内でのシェアを拡大し、競争優位に立つことを狙うのが目的」です。

この戦略はチェーン本部にとっては有益な方法ですが、各店舗にとっては「売上げが減少する」というデメリットが発生することを意味します。この点が、現在コンビニ問題が大きくなっている要因ですが、新聞の販売業においてはそんな心配もありません。ですから、「儲かる業種」だったのです。競争相手がいないことほど、販売業において有利な環境はありません。

しかも、新聞販売業には販売部数以外にも大きな収益源があります。それは折込チラシです。わかりやすいweb記事がありましたので引用させていただきます。

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(https://shinjukuacc.com/20180620-02/より引用)
折り込みチラシ自体、その広告費は、新聞社に入るわけではありません。あくまでも「新聞販売店」の売上です

折り込みチラシ(A4サイズで1枚3.3円程度、A1サイズだと1枚13円程度)が収益のかなりの柱になっている

新聞を1部配れば、毎週700~800円、毎月3,000~4,000円ほどの売上が得られる

朝刊を300部配達で、月間購読料でいえば120万円前後、月間のチラシ収入でも120万円を超える売上を販売店にもたらしていた計算です。毎月240万円を超える売上高

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このように新聞販売所は儲かる業種だったのですが、現在では「儲からない業種」になっています。折込チラシの収益も販売部数があってこそのメリットです。その販売部数が落ち込んでいます。実は、その落ち込んでいる部数も「押し紙」が含まれての部数です。

「押し紙」とは「新聞本社から各販売店に「押し」つける形で売る「新聞」のこと」です。新聞本社は売れそうもない部数を、強い立場を利用して販売店に押し売りをしていたわけです。これで「社会の木鐸」になる資格があるのでしょうか。

しかし、僕が「押し紙」以上に憤りを感じているのは、最近の政治家を取材する新聞記者たちの報道姿勢です。最近の新聞記者の人たちは政権を監視する役目を放棄しているように映ります。それを物語っているのが、スクープを報じているのが「文春砲を筆頭にした週刊誌である」という事実です。

9月に誕生した安倍内閣で、すでに2人の閣僚が辞任していますが、そのきっかけを報じたのはどちらも週刊誌の記事です。本来なら、新聞記者がやらなければいけないスクープです。いったい今の新聞記者はなにをしているのでしょう。単に記者会見に出席して政治家の話を記事にしているだけのように見えます。これでは記者ではなく広報員と同じです。少しでも、ジャーナリストとしての気概があるなら、政治家の説明の真偽を追求する姿勢を見せるべきです。

些細な例ですが、千葉県に台風被害が起きたとき、森田知事が対策本部を立ち上げたその日に自宅に帰っていたことが発覚しました。その釈明会見において、記者が追及していましたが、菅官房長官やほかの閣僚の会見においても新聞記者のみなさんには同様の取材姿勢を見せていただきたいものです。

しかし、実際の会見で政府に異議を唱えるような質問をする記者は一人もいません。以前、東京新聞の社会部の望月衣塑子記者が「米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設工事をめぐる質問」をしましたが、そのときに会見場で中央に陣取っていたほかの記者の振る舞いが今の新聞記者の姿勢を象徴しているように感じました。

僕の印象では、「政治部ではない社会部の記者が、トンチンカンな質問をしている」とか「会見場の空気を読めよな」という雰囲気が流れていたように感じました。つまり、政治部の記者の立ち位置が政府寄りなのです。これで本来の役割であるジャーナリズム精神が保たれるのでしょうか。

僕は、最近の新聞記者のこうした姿勢に不満があります。望月記者については、本が出版されたり映画になったりと新聞以外のマスコミが応援している感じがしますが、本来なら新聞業界や記者が先頭に立って望月記者を擁護するのがジャーナリストとしての責務だと思います。

かつて、日本では首相が贈賄で逮捕されたことがあります。いわゆるロッキード事件ですが、そのときも発端は週刊誌でした。週刊誌で報じられたあとに新聞やテレビなどいろいろなマスコミが報じ合戦をしました。これが世論となり、首相を退陣に追い込んだのですが、その際もある新聞記者の中には「あんな記事はスクープではない。あんなことは、記者ならみんな知っていた」と語っていた人もいました。

つまり、知っていたのに記事として書かなかったことを、自ら認めているのです。これこそが新聞が衰退した一番の理由です。では、なぜ「知っていたのに、書かなかったのか?」。それは、政治家と仲良くなりすぎたからです。

こうした関係を示すのが、マスコミの人間が政権内に入ることがままあることです。これなどは、政治家とジャーナリストの関係が監視から緊密へと変化していることの表れです。しかし、問題はこれだけではありません。そして、こちらのほうが大きな問題かもしれません。

それは、新聞記者が「記者としての矜持を失いつつあること」です。新聞記者は権力者を監視する役目を担っているはずですが、監視するにはそれ相応の覚悟が必要です。権力者を追求するのは簡単ではないはずだからです。ときには生活や命が脅かされることもあるかもしれません。実際、サウジアラビアでは記者が殺害されていますし、そういった例はたくさんあります。

それほど権力者を監視するのは苦難が伴いますが、そうした苦難を避けるように記事を書いているように感じます。昔の記者はそうした苦難を乗り越えることに矜持を感じていたはずです。ですが、最近の記者の人たちからはそうした矜持がなくなっているように見えます。

確かに、真実を追求するには勇気と覚悟が必要ですが、そうしたことを承知のうえでジャーナリストの道を選んだはずです。それにもかかわらず、「政治家に嫌われないように報道する」のではジャーナリストとして失格です。

新聞に限りませんが、マスコミの人たちがジャーナリストの気概を失わないことを願っています。その第一歩は記者クラブ制度の廃止です。

じゃ、また。




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