<フェイント>

pressココロ上




ネットの記事を眺めていましたところ、サッカーの「ドリブル理論」を解説した記事に目が留まりました。この記事を書いているのは岡部将和さんという方ですが、以前テレビで日本代表の原口選手にドリブルを教えている映像を見たことがあります。日本代表に入っている選手が教えを乞うのですから、実力は折り紙付きということになります。

その記事は「どうやってドリブルをすると相手選手を抜けるから」ということを理論的に解説しているのですが、その中で「身体の向き」についてある部分がありました。簡単に説明しますと、「自分が進みたい方向に対して自分が有利な角度にする」のですが、この文章を読んでいて、高校時代の校内サッカー大会での場面を思い出しました。

僕は運動能力において「走ったり、跳んだり、持久力」という基本的な体力面では平凡なのですが、テクニックという面では「抜きんでている」という自負がありました。自分で言うのもなんですが、持って生まれた才能のような気がします。

しかし、スポーツの世界はレベルが上がれば上がるほどテクニックよりも基礎的な体力面が重要になってきます。僕が生まれて初めてそれを実感したのは小学校から中学校に上がったときでした。

小学校の頃、僕は運動が得意な少年として一目置かれていて、その中でも特に軟式ボールを使った野球では目立っていました。もちろん僕以外にも「うまい!」と言われていた子はいましたが、その中にカトウ君という少年がいました。カトウ君は僕より身長も高く、細身ではありましたが、器用という表現がふさわしいくらいテクニック的に優れていました。

小学校時代に野球で目立っていたカトウ君ですが、中学校では野球どころか運動をやらない少年になっていました。小学校時代の野球をしている面影は全くなくなっていたのです。中学校の体育の時間のカトウ君を見ていますと、いつの間にか運動部系ではなく文科系が似合っている身体の動きになっていました。基礎体力面が弱かったからです。

このときに僕は、スポーツはテクニックよりも「基礎体力の大切さ」を思い知りました。テクニックは基礎体力が備わってこそのテクニックだったのです。基礎体力がない人間がいくらテクニックがうまくても通用しない現実を知りました。幸いにも僕は厳しい練習が嫌いではない性格でしたので、中学では厳しい練習をすることで有名なバスケット部で3年間を過ごすことができました。

高校に入りますと、基礎体力面のレベルが中学校よりもさらに上がります。僕が入ったバレーボール部は学校一の厳しい練習で有名なクラブでした。テクニック的な面ではある程度自信がある僕でしたが、基礎体力面ではほかの人に劣っている自覚がありました。普通の練習自体を辛く感じていました。

それでもなんとか続けていますと、不思議と慣れてきたのです。このとき「厳しさは慣れる」と知りました。このときに記憶に残っている場面があります。

僕が1年生だったとき、そのときの3年生は過去のバレー部と比べて優れた選手が集まっていました。その地区では強豪に入るほどだったそうですが、そのときのレギュラーの一人にミヤザキさんという先輩がいました。この先輩がかなり豪放な性格の人でした。

例えば、高校生でありながらパチンコで稼いだお菓子を持ってきたり、日焼けサロンに行って真っ黒な顔でやってきたりと真面目とはかけ離れた高校生活を送っている人でした。しかし、バレーのセンスは抜群でチームの要になっていました。

そのミヤザキ先輩が僕の練習の様子を見て、言いました。

「おまえはテクニックがうまそうだから、あとは基礎体力的な面を伸ばせばいいよ」

僕が一年生として入部して3か月くらい過ぎた頃で、ちょうど厳しい練習に慣れはじめていた時期です。そのときの僕の練習を少し見ただけのミヤザキ先輩の言葉でした。運動部では、一年生にとって三年生は雲の上の存在です。その人からの言葉でしたのでうれしかったのですが、ほんのわずかして見ていないのに、僕が自信がある面を見抜き、そして僕に足りない面を見抜いたミヤザキ先輩に驚きました。

さて、3年生になったとき校内サッカー大会がありました。サッカー大会ですから、もちろん活躍するのはサッカー部の人たちです。サッカー部には1年生のときに同級で仲良くしていたミヤモト君がいました。ミヤモト君は身長は僕よりも低いのですが、胸板が厚く足がべらぼうに速いのです。サッカー部に向いている基礎体力がありました。

そのミヤモト君のクラスと対戦したのですが、ある場面で僕はミヤモト君と「1対1」になりました。ミヤモト君がボールを持ち、ドリブルで僕を抜くか、周りにパスを渡すかの場面です。もちろん僕はドリブルで抜かれないようにミヤモト君が進もうとする方向の正面に立ちました。

その間、ミヤモト君はボールに細かくタッチしています。ボールをどちら側にでも動かせるようにするためです。僕としては、下手に身体を寄せてしまいますと抜かれてしまいますので、一定の距離を保ちドリブルで抜かれないような態勢を取っていました。

すると、ミヤモト君は僕が立っている方向から右へ100度くらい反転し、そちらの方向にパスをする態勢をとりました。僕はその動きを見て、そちらのほうへ身体を移動させました。パスを出せないためです。

ところが、ミヤモト君は僕が身体を移動させた瞬間に、最初に進もうとして方向にドリブルで走り去ってしまったのです。

フェイントにひっかかってしまいました。

まさに岡部さんの「ドリブル理論」でした。ミヤモト君が「身体の向きを右方向へ100度向けた」のは、本来進みたい方向への角度を広げるための「フェイント」だったのです。フェイントと言いますと、細かな身体の動きを組み合わせてようやっと成功するイメージがあります。ですが、本当に効果のあるフェイントは「シンプルな動き」のようです。

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ここ数年政治の世界では「フェイント」がまかり通りすぎている感があります。「モリカケ問題」では公文書の改ざんが行われ、今回の「桜を見る会」では改ざんどころかシュレッダーで廃棄まで行われています。そして、そのたびに「国民の皆様に丁寧に説明」とフェイントをかけています。

フェイントはこれだけにとどまりません。「責任を果たす」というフェイントがあります。「任命責任は自分にある」と言いながら、なにもしません。普通の人の感覚では「責任を果たす」というときは「なにかしらの対応をする」ことを意味します。

一般企業で業績悪化や不祥事の「責任を取る」というときは、役職を辞任することです。少なくとても報酬の減額などなにかしらの対応があります。「責任がある」と認めながら、なにもしないのは国民をなめているからにほかなりません。

国民は、「そのうち忘れる」と思われています…。

じゃ、また。




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