<行列の心理>

pressココロ上




コロナウイルスは社会生活に様々な影響を与えていますが、同時に人間心理を露わにする力も持っているようです。

もうすぐ東日本大震災が発生した3月11日を迎えますが、この日は僕にとって忘れらない日です。これまでにも書いていますが、3月11日は結婚記念日でもありお店を廃業した節めの日でもあるからです。本当に偶然ですが、人生において忘れられない日にちになっています。

それはともかく、東日本大震災は多大な被害をもたらしましたが、同時に日本人の素晴らしさを世界に知らしめることにもなりました。

それは、あれほど混乱し困難な状況下であってもきちんと整列をして買い物をしていたからです。海外でこのような混乱した状況が起きますと、ほとんどと言っていいくらい略奪行為が起きるそうです。商店の窓ガラスが割られ高価な商品を奪い合う映像をニュースなどで見かけることがありますが、まさに混乱に乗じて悪事を働く群集心理が働くようで、そうした状況は社会をさらに不安にさせます。

それに比べて日本では、被災したあともコンビニやスーパーの入り口に整然と列を作り静かに並んでいる人々の姿が映し出されていました。そうした光景が高潔に見えたのでしょう。海外から称賛の声が上がっていました。もちろん家人のいない家に入り込んで盗みを働く人が皆無とはいいませんが、そういう人は少数でほとんどの人は法律を守り冷静に行動していました。どんなに長い行列があろうとも、文句を言うわけでもなく整列に並んでいました。

「行列を作る」という行為は、「順番を守る」ことでもありますから社会的規範を守る意識が高いことを示してもいます。現在はどうかわかりませんが、以前中国で公共の乗り物の乗車方法について啓もうする運動のニュースを見たことがあります。

日本では乗り物に乗る際、行列を作り順番どおりに乗るのは当然の発想です。日本ではそうした慣習が身体に染みついていますが、中国では違うようです。僕が見た映像では、電車が到着するまで行列を作るでもなくドアの入り口の周りに人が雑然と集まっているだけでした。そして、電車のドアが開くといっせいにみんなが乗り込むのです。仮に列ができていたとしても、乗り込む段になりますと順番などお構いなく「我先に」と車内に流れ込むようすが映っていました。

それ以前に、日本人の感覚では「降りる人が終わってから乗り込みます」が、先ほど書きましたように、降りる人がいようといまいと関係なくドアが開くと同時に乗り込んでいました。これでは、降りる人が降りられなくなりますが、そうした気遣いなく全くなく乗り込もうとする人の姿が映っていました。啓蒙運動はそうした社会規範を教えるためにものでした。

このように書きますと、「日本人は、生まれながらにして公共心が備わっている人格者」というイメージが起きますが、実は日本人も「戦後間もない頃は中国の方々と同じで整列も順番も守られていなかった」という記事を目にして驚いたことがあります。現在の日本人の公共心の高さは教育のたまものだったことになります。

人間は、国籍や民族に関係なく「生まれたときは、ただの動物」のようです。

それを裏付けるように、コロナウイルスに関連するものがコンビニやスーパーの棚からなくなっています。最初はマスクが売り場からなくなるだけでしたが、次第に拡大し現在では除菌スプレーやトイレットペーパーまでが消えています。

70年代初頭にオイルショックが起きたとき、トイレットペーパーの買い占め騒動が起きたことがあります。この騒動は、原油の高騰から政府が「紙の節約」を訴えたことが背景にあったそうです。関西地方のあるスーパー近辺で「紙がなくなる」という噂が広まり、主婦が行列を作ってトイレットペーパーを買ったためにすぐに売り切れてしまいました。

こうした状況が口コミで周りの地域に広まり、さらにそれを知った新聞社が報じ、その情報が「紙が本当に無くなるかもしれない」という集団心理を呼び、全国に広がった騒動でした。実際は、当時の紙の生産は安定しており、なくなることはあり得ない状況だったそうです。ですが、国民全員が買い占めをしたことで本当に在庫がなくなったのです。

詰まるところ、この騒動の根本的な原因は噂に翻弄されて「みんなが買い占めに走った」ことです。本来なら、問屋さんの倉庫に保管されているトイレットペーパーが、各家庭の押し入れに溜まっていたことです。人間心理ほど、あやふやで危ういものはありません。

ですから、僕は行列に並ぶのも、見るのも苦手です。

トイレットペーパー騒動が起きた初っ端のきっかけは「行列」です。「行列」は見る人に強い印象を与えます。たまに「列ができてたからとりあえず並んだら、全然必要ないものだった」というジョークを聞くことがありますが、それほど「行列」には見ている人に行動を起こさせる力があります。

そうした力を広告や宣伝にかかわる人が利用しようと考えるのも当然です。

以前ネットの記事で、日本で最初に行列を宣伝に利用したのは「青山どおりにある大手アイスクリームのお店」と読んだことがあります。そのお店は外資系でしたので「さもありなん」と感じました。「利用」という言葉からは「作為的」なイメージが湧きますが、まさにその行列は作られた行列でした。並ぶアルバイトを雇って行列を作っていたのです。

広告・宣伝を仕事にしている人たちは「いかにして行列を作るか」をいつも考えています。考えようによっては「行列」さえ作れたらそのお店は成功と思っている節もあります。

一般の人にもわかりやすいように「行列」について解説しているサイトがありましたので、下記に記します。興味のある方は読んでください。

僕はラーメン店を営んでいましたので、「行列」についてはいつもいろいろと考えさせられていました。僕が「行列」が苦手なのも自分が当事者だったことが影響しています。もっと心の中を言いますと、「苦手」どころか「嫌い」です。さらに言ってしまいますと「並んでいる人」さえも嫌いです。

もちろん列を作り順番を守っている姿は評価に値しますが、「並んでまで食べる」という行為が広告・宣伝する側に踊らされているように感じるからです。ほくそ笑んでいる広告プランナーの顔が浮かんで見えます。

ナチスヒットラーがドイツ大衆を思うがままに動かせたのは広告の力があったからこそです。大衆は広告によってヒットラーにコントロールされてしまいました。行列を作っているまで食べたり買ったりする人たちを見ていますと、ヒットラーにコントロールされていた大衆とダブってしまうのです。

僕は今タバコを止められていますが、そのきっかけは「『吸いたい』という気持ちは自分の意志ではなく、ニコチンに思わされている」とわかったからです。

みなさん、広告に踊らされるのはやめましょう。行列に踊らされるのはやめましょう。

じゃ、また。




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