<普遍的正義>

pressココロ上




コロナの影響が大きいと思いますが、7月はあっという間に終わってしまった感があります。7月は雨がほぼ毎日降っていましたが、ようやっと梅雨も明け、これから夏本番がはじましります。今度は熱中症の心配もしなければいけません。マスクをしてでの熱中症対策となりますので、昨年までとは比べものにならないほど大変な夏になりそうです。

世の中ではいろいろなことがたくさん次々に起きてしまいますので、いちいちすべてを覚えてはいられません。ですから、どうしても覚えているのは自分に関係することや自分が普段気にしていること関連しか覚えていられないことになります。

僕が今、すぐに頭に思い浮かぶ事件といいますと、「座間9遺体事件」です。なぜこの事件が「僕の頭に強く残っているか」といいますと、事件が起きた数日後にたまたまその現場の前を車で通る羽目になってしまったからです。

その日は初めて行く物件に向かっていたのですが、スマホのカーナビを見間違えてしまい、曲がる角を一つ間違えてしまいました。すると、マスコミ関係者らしき人たちが幾人も待機しており、警察官が数人立っているアパートがありました。しかも、アパートの出入口には「立ち入り禁止」のテープが四方八方に貼られていました。「座間9遺体事件」の現場でした。

僕は、たまたまその現場に出くわしてしまいましたので、この事件が強く記憶に刻まれることになりました。そうしたなにかしら印象に残るきっかけがありませんと、どんなに悲惨な事件でも忘れるのが人間というものです。

世の中で起きる事件とは常にそういう宿命にありますので、定期的にマスコミに取り上げてもらうことは大きな意味があります。先日お亡くなりになりました横田滋さんは北朝鮮に拉致された娘さんのお父様ですが、この事件は定期的にマスコミが取り上げてくれています。そこに、マスコミの良心を感じます。

そのほかにマスコミが定期的に取り上げる事件で思い浮かぶのは、「八王子のスーパー殺人事件」と「世田谷一家殺人事件」です。どちらも僕は仕事絡みで行ったことがある場所ですので記憶に残っています。特に「スーパー殺人事件」は自分自身がスーパーに勤めていた経験がありますので、現場の様子が想像できてしまい、そういう親近感が事件を心に刻み込ませています。

このようにマスコミが意識的に報じてくれたり、または自分自身になにかしらのきっかけがありませんと、事件は忘れられてしまう宿命にあります。そうした事件の性質を考えますと、マスコミが報じるタイミングはとても重要です。

例えば、注目を集める事件がたくさんあるときに報じられる事件は、一つひとつに対する関心はどうしても低くなります。関心がバラけてしまいますので、避けようがない現実です。その観点から、最近僕が「タイミングが悪い」と感じたのは「森友学園事件で自殺した職員(官僚)」の遺族が起こした裁判です。

「森友学園問題」が最初に報じられたのは2016年ですので、もう4年も前になります。簡単に言ってしまいますと、「国有地を格安で払い下げした際に、安倍総理が口利きをした」事件です。当時野党が追及しましたが、結局うやむやで終わってしまいました。

それで終わりかと思っていた今年3月、元NHK出身のジャーナリストが「安倍官邸vs.NHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由」という本を出版したことで、再び注目されることになりました。しかし、このときはコロナがちょうど拡散した時期と重なり、まさに「タイミングが悪かった」のです。

僕は、「これほどのスクープなのに、注目されないまま終わってしまうのか」と心配したのですが、先週新たな展開がありました。自殺した職員の奥様が民事裁判を起こしたのです。繰り返しになりますが、「これほどのスクープ」が世間の関心をあまり集めることなく、葬り去られてしまうことが残念でなりませんでした。

僕の推察では、奥様は「自分の意志」というよりは周りから背中を押されている感がありますが、悪い印象は受けていません。なにかの記事で読みましたが、本来奥様は「人前に出て話をするようなタイプではない」そうです。その自分が「大勢のマスコミの前に出て会見をしていることが不思議」と述べていました。亡くなったご主人への強い思いがあったからにほかなりません。

実際、一般の人にとっては記者会見を開くのも、多くの人の前で話すのは大変なプレッシャーです。そうしたことを実現させるには、サポートしてくれる人がいなければ不可能です。その意味で、「周りから背中を押される」ことを受け入れるのは悪いことではありません。

奥様が裁判を起こしたことで、再び「森友学園事件」が注目されることになりましたが、普通の社会人が普通の感覚で考えるなら、この事件がこのままうやむやに終わるのは間違っています。正義感により自殺をした人が報われない社会は間違っています。悪いことをした人間が、なにも罰を受けずにのさばっているのも間違っています。

以前コラムで、ユーゴスラビア紛争について書いた「戦争広告代理店」という本を紹介したことがあります。ユーゴスラビア紛争は民族対立が根本にありますが、「いかにして世界から共感されるか」が重要な分かれ目でした。そのために「広告代理店」を雇ったのですが、目的は「世界から同情を買うような広告を出す」ことです。

そして、広告が効果を発揮したときに「正義は自分たちにある」ことになります。しかし、民族対立を突き詰めていきますと、「正義がたくさんある」ことになります。なぜなら、各民族からしますと、自分たちが正義だからです。しかし、正義がいくつもあっては平和な社会は築かれません。

先週、米国のポンペオ国務長官が米中の新たな冷戦のはじまりに対して、同盟国の結束を呼びかけました。僕の正直な感想としては「なにを今さら」です。アメリカンファーストを掲げて世界協調を目指している機関から相次いで離脱してきたこれまでのトランプ政権です。「なにを今さら」と思っているのは僕だけではないでしょう。

世界が協調して平和な社会を築くには、世界が共有する正義が必要です。それぞれの立場の人だけの正義ではなく。共有できる正義です。それこそが本当の意味での正義です。実は、僕はこれまで「立場によって異なる正義」が存在すると考えていました。理由は、ユーゴスラビア紛争でした。

「広告代理店」の力量によって、たくさんの正義が簡単に作られてしまうからです。ですが、正義に「いろいろ」はないのです。「いろいろな」正義は、正義ではありません。本来の正義は、だれも傷つかない思想です。もし、その正義によって誰かが傷つくのであれば、それは正義ではありません。

だれも傷つかない正義を「普遍的な正義」と呼ぶことにしました。

じゃ、また。







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