<験担ぎ>

pressココロ上




今年最初のコラムです。本年もよろしくお願いいたします。

昨年の最初のコラムでも書きましたが、今年も我が家恒例のボーリング大会は開催することなくお正月が終わりました。ボーリング大会を開催しなくなったきっかけはコロナですが、3年も開催しないでいますと、昨年書きましたようにこのまま消滅するような気がしています。

一昨年は妻が腕を骨折したのですが、昨年末には息子が肋骨を骨折するという事故に見舞われてしまいました。息子と言いましても中年の独身ですが、朝の出勤時に自転車で駅に向かっている途中に転んだのが原因です。息子の話によりますと曲がり角で穴にはまりそのまま転倒したらしいのですが、ズボンの膝の部分が20センチ以上裂けていましたのでかなりの転び方だったようです。

そのまま会社に向かったのですが、1日中胸のあたりに痛みがあり、同僚から冗談交じりに「骨折れてるんじゃない、病院行った方がいいよ」と言われていたそうです。運よく翌日は土曜日でしたので病院に行ったところ、「肋骨が2本折れている」という診断を受けたのでした。

「骨折している」という診断だったのですが、驚くのは特別な治療はなにもせず、ただコルセットを胴体に巻かれただけで帰ってきたことです。一昨年妻が腕を骨折したときは、骨をくっつける手術をしていましたので、その対応の違いを息子に尋ねました。すると、お医者さんの説明では「折れた骨が離れている場合はつなげる手術が必要だが、骨が離れていない場合は自然につながるので手術の必要はない」とのことでした。人間の復元力の強さに感動です。神さまはなんとすごい人体に作ったのでしょう。

神さまがいるか知らんけど…。

「神さま」という言葉で思い起こすのは、やはり旧統一教会の事件です。安倍元首相が襲撃されてからもう半年も経ちますが、現在注目されているのは「宗教二世」問題です。ネットの記事などでも「宗教二世」関連を目にすることが多いのですが、社会の関心が薄れるのが最もよくないことですので、マスコミは最終決着がつくまで報じ続けてほしいと思っています。

息子の骨折で人間の肉体の復元力の強さを実感しましたが、その反対に人間の精神的な弱さを実感するのが宗教問題です。人間の「心の弱さ」を感じずにはいられません。旧統一教会に限らないのですが、かつての「オウム真理教事件」とか「法の華三法行事件」などこれまでにカルト集団による事件があったにもかかわらず同じような事件がなくならないのは「人の心が弱いから」に尽きます。

実は、僕自身もそうした自分の心の弱さを感じることがたまにあるのですが、例えば「験担ぎ」などもその一つのように思います。かなり古い話で恐縮ですが、かつて輪島さんという大相撲の横綱がいました。当時のライバルは北の湖さんという若くして横綱まで出世し、引退してからは理事長にまで上りつめた方ですが、当時最強と言われていた横綱です。

その北の湖横綱と輪島横綱が最終日まで同じ勝ち星で争っていたとき、輪島さんは途中からヒゲを剃らずにいました。その理由が「験を担いだから」ですが、僕はそのとき初めて「験担ぎ」を意識するようになりました。これほどの実力の持ち主でも「験を担ぐ」ことがあるんだ、と。

「験担ぎ」を辞書で調べますと、「ある物事に対して、以前に良い結果が出た行為を繰り返し行うことで吉兆を推し量ること」とありますが、別の言い方をするなら「ジンクス」と言い換えることもできそうです。ちょうど今の時期ですと、受験に際して「キットカットを食べる」などがありますが、このジンクスは10年くらい前から流行ったように記憶しています。言わずもがなですが、「キットカットを食べる」のは受験に「きっと勝つ」からきています。

そうした事例を見聞きすることがありますと、感化されやすい僕もいろいろな場面で「ジンクス」と言いますか「験」と言いますか、そうしたことを考えることがあります。例えば、車を使って仕事をしているときになにかしらのトラブルがあったりしたとき、次回からは「同じルートを走らない」といったようなことです。

しかし、こうした考えはカルト集団の思うツボです。カルト集団の手法を見ていきますと「相手を不安な気持ちに陥れてマインドコントロール」しています。先ほど紹介しました「キットカット」の「ジンクス」もメーカーの広告・宣伝がはじまりだったような気がしますが、お菓子の購入程度の影響ですと笑って済ませられます。ですが、人生を左右するほどの影響となりますと、簡単に見過ごすことはできません。「ジンクス」も「験」もあまりにこだわりすぎますと、マインドコントロールの罠にはまることになりますので注意が必要です。

マインドコントロールに関連していいますと、年末に読んだ記事で考えさせられることがありました。これまでに幾度か「戦争広告代理店」という本を紹介したことがありますが、この本は1990年代前半に起きたボスニア紛争の際の「広告」の重要性を解説した内容です。

ボスニア紛争とはユーゴスラビアという国が解体していく過程において民族間で対立した戦争ですが、一般的な理解のされ方は「セルビアという悪い国家がボスニアという弱小国家を蹂躙している」ということでした。この本はそうした見方が世界に広がるように、ボスニアという国家が米国の広告代理店と契約をした内情を暴露したものでした。

年末にこの本を思い出すきっかけになったのは、昨年来続いているロシアのウクライナ侵攻です。現状では僕は絶対にロシアが悪者と思っていますが、ロシアをボスニア紛争の際のセルビアになぞらえている記事を目にしました。つまり、ロシアが悪者になっているのは、「そのような情報が世界にあふれているから」という考えです。

もちろん僕はそうした見方、考え方に与しませんが、僕が接している情報が西側からの発信ですので「ロシア悪者」に偏っている可能性は否定できません。そのように思ったときに「ロシアをセルビア」になぞらえている記事に遭遇しましたので「戦争広告代理店」を思い起こした次第です。

僕が接している情報はもしかしたなら戦争広告代理店のような「西側の情報操作の可能性」もあり得ますが、それを考慮に入れてもなお僕は「ロシアを非難」したいと思っています。なんと言っても「武力で侵攻した」という事実は重要な点です。仮にロシアに「三分の道理」があろうとも、多くのなんの罪もない一般人を殺害するのは重大な犯罪です。

民族の独立に関して世界を見渡しますと、英国ではスコットランド独立運動がありますし、スペインでもカタルーニャ独立運動があります。このように世界各地で紛争が起きていますが、独立運動には過去の歴史が絡んできますので、容易には解決できないのが実際のところです。

特に歴史に詳しい人や専門的学識が高い人からしますと、いろいろなしがらみもあり和解を容易に受けいられないことがたくさんあろうことは想像が尽きます。おそらく知識や学識が高ければ高いほどそうした傾向が高いように思います。

しかし、だからといって未来永劫に紛争が続くのは正しい対処法ではないはずです。やはり世界は平和であることが理想です。争いがある世の中に人間の幸せはありません。僕は社会の片隅で暮らしている平凡なおじさんですが、そうした平凡なおじさんだからこその視点で今年もコラムを書いていく所存でございます。(^o^)

本年もよろしくお願いいたします。

じゃ、また。




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