<公平な競争>

pressココロ上




現在、年寄りの入り口に一歩足を踏み入れている僕ですが、こんな僕にも少年時代がありました。当時の僕はスポーツ大好き少年でしたので、中学高校と運動クラブに所属していました。小学校時代が抜けているのは、当時小学校にはクラブ活動がなかったからです。

中学ではバスケットボール部に、高校ではバレーボール部に入りましたが、どちらも「身長が伸びる」という評判を聞いたことがあったからです。運動が好きな僕でしたので、運動神経にはそれなりに自信を持っていましたが、身長が低いのは如何ともし難いものがありました。

そんな僕でしたが、どちらでも最後までレギュラーになれていました。その理由は選手の人数が少なかったからです。もし、もっと選手の数が多くレギュラーになれなかったなら途中でやめていたかもしれません。先週はサンデル教授の「実力も運のうち」を紹介しましたが、やはりサンデル教授の指摘は正しいように思います。

僕は「巨人の星」や「あしたのジョー」に夢中になった世代ですが、いわゆる「スポ根」全盛期の時代でした。最近「努力は必ず報われるか、どうか」が話題に上ることがありますが、「スポ根」の肝は「努力は必ず報われる」です。もし、報われなかったなら誰も努力をしなくなってしまいます。しかし、努力した人が必ず報われるとは限らないのが現実です。

そこで出てきた言葉が「努力は決して無駄にはならない」です。すぐに成果は現れなくとも将来のいつか「努力は、必ず生きてくる」という考えです。現在、社会生活を送るうえでなくてはならないツールの一つにスマホがあります。街中では僕よりも年配の方がスマホを操作している光景を見かけます。

そのスマホを世の中に誕生させたのはスティーブ・ジョブズ氏ですが、今から7~8年前そのジョブズ氏がスタンダード大学で行った講演が注目を集めました。要約しますと、ジョブズ氏は大学進学後、学費が払えず中途退学するのですが、無断で授業だけ受けていたそうです。そのときに受けていた講義が「カリグラフィ」でした。

「カリグラフィ」とは「アルファベットを書く技術、手法、筆法。または、書かれた文字そのもの」(weblio辞書より引用)のことですが、このときの知識が役に立ったのは、10年後だそうです。ジョブズ氏は10年後に「mac」というパソコンを開発しますが、その際に「カリグラフィ」の知識が役に立ったそうです。ジョブズ氏は訴えます。

「点と点が、将来なんらかの形でつながることを信じてください」
(ジョブズ氏のスピーチhttps://www.youtube.com/watch?v=VyzqHFdzBKg)

ジョブズ氏のスピーチを聞いていますと、「努力は決して無駄にはならない」と思えてきます。仮に、必死に努力をした結果がすぐに表れなかったとしても、その努力は将来なにかしらの場面で生きてくるはずです。

例えば、陸上競技の選手が毎日反吐を吐くほどの練習をして試合に臨んだとしても上位に入れないこともあります。それが本来の力の場合もありますし、たまたま調子が悪かったという場合もあります。

負けた原因がどちらであろうとも、負けた事実は変わりません。つまり、そのときの結果としては「努力は報われなかった」ことになりますが、それはあくまで「そのとき」のことだけです。もしかしたなら、そのときに頑張った苦しい体験が、社会人になり営業職や研究職に就いたときに生きてくるかもしれません。

また、「努力が報われなかった経験」をしたことで、「努力が報われない人の気持ち」が痛いほどわかるようになっています。「努力が報われた人には報われない人」の気持ちはなかなかわからないものです。思い通りにいかない人生を経験したことは、いろいろな場面で生きていくはずです。このように考えてきますと、「努力は決して無駄にはならない」のは間違いないところでしょう。

さて、「努力が無駄にならない」ことが確定したところで、次に問題になるのは「努力の質や内容」です。例えば、一口に「苦しい練習」と言っても、人によって程度はさまざまです。ある人の練習は「100メートルダッシュを10回」で、ある人の練習は「100メートルダッシュ100回」だった場合、単なる数字上では後者のほうが「苦しい練習をしたこと」になります。

しかし、ここで重要な問題があります。それは「100メートルダッシュを10回」しか練習をしていない人でも、科学的な工夫をすることによって「100メートルダッシュ100回」と同じ効果を得られる可能性があることです。

現在メジャーリーグで多くの日本人が活躍していますが、その先鞭をつけたのは野茂英雄投手です。野茂投手は、当時の監督が押しつけてきた古い根性練習方法に異を唱えたことで溝が生まれて日本球界を離れたと言われています。その後のメジャーリーグでの活躍を見ていますと、野茂選手の考え方のほうが正しかったように思えます。

野茂投手は古い根性論的な練習方法に対して異を唱えたのですが、野球界に限らず練習方法はどんどん進化してきています。進化の背景には科学の発展がありますが、「今の時代はどれだけ科学を活用できるか」が、勝負の分かれ目になってきています。練習のやり過ぎで反対に能力が落ちることもあるそうですから、科学の活用はスポーツ選手に必須要件になっています。

ここでまた重要な問題があります。それは誰でもが科学を活用できるわけではないことです。科学を活用するにはそれなりの資金が必要ですが、すべての選手が資金を用意できるわけではありません。常識的に考えるなら、先進国の選手は容易ですが発展途上国では困難です。

こうした事実を見て行きますと、練習環境において先進国の選手と発展途上国の選手では大きな格差があります。このような状況は決して公平な競争とはいえません。絶対的に先進国の選手の方が有利です。先進国の一流の選手は練習のやり方から食事までありとあらゆる面で能力を高められるような練習環境を整えています。そうした選手と後進国で科学の力を使わずに必死に努力をしている選手が対等な競争をしているとは言えません。

一般競技でさえそうした問題を抱えていますが、パラリンピックになりますとさらに大きな問題となります。パラリンピックの場合は道具を使うケースが多くありますが、その道具の性能が大きく結果に影響することは容易に想像がつきます。言うまでもなく、先進国で先端技術を取り入れた道具を使っている選手のほうが有利なのは言うまでもありません。

一昨年あたりから陸上界では厚底シューズが物議を醸していますが、厚底シューズが登場してから記録が伸びているのは歴然とした事実です。これは、道具が競技に影響を与えていることを示していますが、そのことに対して思うことは「公平さ」の担保、ただ一つです。

スポーツが見ている人に感動を与えるのは、そこに競争があるからです。強靭な肉体を持った選手が「競い争う」映像は人々の心を揺さぶります。そして、そのときの条件には「公平さ」の担保が求められます。もし「公平さ」が担保されていない競争が行われていたなら、感動など起きてこないでしょう。スポーツ競技の中には体重別競技がありますが、体重別に分かれているのは「公平さ」を保つためです。

ITが進歩した現代において、あまりにITに依存した練習方法または試合運営ではスポーツとは言えなくなってきそうです。スポーツの面白さを高めるためにも、ここらあたりでもう一度スポーツ大会の在り方について考えなおす時期に来ているように思います。

じゃ、また。




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