<2020年もおわり>

pressココロ上




毎年一年の締めくくりは、「一年が過ぎるのは早いもので」という枕詞でコラムを書いていますが、今年はまさに「あっという間」という言葉がぴったりの一年でした。これもコロナのせいだと思いますが、今年の初めにまさかこんな一年が待っていようとは誰も想像しなかったでしょう。

経営学者のドラッカー氏の言葉に「変化はコントロールできない。できるのは変化のコントロールの先頭に立つことだけだ」という金言がありますが、人間には「変化をコントロールできる」ほどの能力は備わっていません。神様の可否については僕にはわかりませんが、とにかく「変化をコントロールすること」は人間の限界を超えています。

僕に関して言いますと、今年の3月に肺炎にかかってしまいました。まだコロナという言葉が世間に浸透する前のことです。僕は7年前に心臓の手術を受けましたが、それ以来2ヶ月に1度くらいの頻度で通院しています。いわゆる「かかりつけ医」ということになりますが、その先生のところに行きましたところ、「肺炎」と診断された次第です。

そのときは先生もコロナについて言及することもなく、ただ「肺炎のこわさ」を指摘しただけで、「全体安静」を申し渡されました。自分ではただの風邪くらいに考えていましたので、僕の症状を見て「肺炎」を疑い、レントゲンを撮り診断したのですから、やはりお医者さんというのは凄いものです。おかげで大事に至らずに済みました。

しかし、「絶対安静」を強く言われましたので仕事を休むこととなりました。僕が病気で仕事を休んだのは7年前に不整脈を起こした時以来です。それまでの人生でも、病気で仕事を休んだことがありませんでしたので、自分が一番驚きました。それ以来、僕は病院通いが生活の一部になったのですが、若い頃には想像が及ばなかった「年をとった自分」の一番の変化は「病気をすること」でした。

僕は体育会系の人間でしたので、体力には少々自信があり、「年をとっても動き回れる」と思っていました。「病気をすること」は全くの想定外でした。人間は病気をすると体力的に弱くなります。このことを全く予想していなかったのです。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」  オットー・フォン・ビスマルク

その経験さえもなかったのですから、なにも学ぶこともできませんでした。僕は愚者より愚かな人間ということになります。

そんな僕には夕方になると行うルーティーンがあります。それはパソコンの前に座り、ネット作業をすることです。例えばメールチェックをしたり、ブックマークをしているサイトを見たりなどしています。我が家は狭いキッチンとリビングの間に仕切りになるものがなにもなく続いており、僕のパソコンはリビングに置いてあります。しかも、キッチン寄りの壁際に置いてありますので、妻が調理をしているときは1メートルくらいしか離れていない距離です。

ある日、いつものようにルーティーンをしていますと、調理をしている妻がなにやら小さな声で口ずさんでいるのが聞こえてきました。気になり、今流行りの全集中で聞いていますと、聞き覚えのあるメロディーを口ずさんでいました。僕の記憶では、運動会などで聞いたことがメロディーでした。

あとで調べましたところ、「ボギー大佐」という運動会などでよく使われる行進曲でした。メロディーはすんなり、しかも心地よく脳内に入ってきたのですが、歌詞がいまいち変なのです。

もう一度、さらに「全集中」しました。すると…。

♪「サル」「ゴリラ」「チンパンジー」
♪「サル」「ゴリラ」「チンパンジー」

確かに、間違いなく、こう歌っていました。なんど全集中をしても、「サル」「ゴリラ」「チンパンジー」でした。

そこで妻の背後まで行き、「その歌、なに?」と聞きますと、楽しそうな笑顔で「今日、小学生が歌っていた」と教えてくれました。妻がパートに行く時間は、ちょうど小学生が登校する時間と重なるのですが、小学生たちがその歌を歌いながら歩いているのだそうです。

妻によりますと、この替え歌は昔から子供たちに歌われているそうで、僕は知らなかったのですが、歌詞がメロディーにピッタリと収まります。そこでネットで調べますと、確かに「ボギー大佐は、替え歌で子供たちに歌われている」と書いてありました。子供の才能って、純粋で素朴で素晴らしいですねぇ。

そんな純粋で素朴な子供も、大人になるにつれて変わってしまうようです。安倍前首相が「桜を見る会」に関する国会での発言について謝罪しました。しかし、「すべて秘書がやったこと」として「道義的責任を認めるだけ」になっていました。いったい誰がこの謝罪内容を真に受けるでしょう。

ある大手化粧品会社トップのネットでの発言が物議を醸しています。その理由は、内容が「差別を助長するかのような発言」だったからです。僕も読みましたが、読み手の問題ではなく明らかに差別をしている内容でした。純粋で素朴な子供の心はどこに行ってしまったのでしょう。

僕は小さい頃、「大人になると、人間は全員人格者になる」と思っていました。しかし、そうではないことが、年を重ねるに従いわかってきました。もちろん社会的に弱い人たちを助けようとする人もたくさんいますが、全員ではありません。中には「自分だけが幸せになればいい」という人がいることも知りました。

僕は40才半ばまで読書をしたことがあまりありませんでした。理由は、仕事をするだけで精一杯だったからです。本を読むとしてもビジネス関連の本だけです。それ以外の本を読む余裕などありませんでした。おそらく今のほとんどの社会人の方々は同じ状況だと思います。

人は知らぬ間に、生まれたときに持っていた本来の資質から離れていくことがあります(僕は性善説派です)。子供の頃に備わっていた純粋で素朴な心が失われていきます。そうしたときに、本来の自分に戻すきっかけになるのが読書です。人が生きているうちに経験できることなんてたかが知れています。たくさんの情報の中から、いろいろな人の考えに触れ、様々な感想を抱き、考察することができます。

では、今年の最後のコラムは、僕が今年一番心に残った言葉で締めくくろうと思います。

「反ナチ運動組織告白教会の指導者マルティン・ニーメラーの言葉に由来する詩」

ナチスがコミュニスト(共産主義者)を弾圧した時,私は不安に駆られたが,自分はコミュニストではなかったので,何の行動も起こさなかった。

その次,ナチスはソーシャリスト(社会主義者,労働組合員)を弾圧した。私はさらに不安を感じたが,自分はソーシャリストではないので,何の抗議もしなかった。

それからナチスは学生,新聞人,ユダヤ人と,順次弾圧の輪を広げていき,そのたびに私の不安は増大したが,それでも私は行動に出なかった。

ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた。
そして私は牧師だった。
だから行動に立ち上がったが,その時は,すべてがあまりに遅過ぎた。

マザー・テレサさんの言葉です。

『愛の反対は憎しみではない 無関心だ』

一年間ありがとうございました。

来年もよろしくお願いいたします。




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