新聞夕刊に載っていた作家のコラムは心に染み入りました。
タイトルは「血より濃いもの」です。作家のご両親について書かれていたのですが、夫婦仲が悪く殺傷沙汰まで起こしていたにも関わらず、80才を越え息子である作家のことやその他の子供や嫁たちのことは認識できなくなっても夫だけは「亭主だ」とわかっていたそうです。自分が産み自分と同じ血が流れている人間より結婚しなければ他人でしかなかった夫の顔を思えていたのでした。夫婦ってそういうものなかのなぁ…と感動しました。
親と子供の関係は子供が小さなうちは親が上で子供が下です。昨今の子供虐待事件を見ましても明らかです。子供は親に抵抗することはできません。高校生、早い人でも中学生になるまでは親の意見に従わざるを得ません。親子関係は上下関係がハッキリしています。そして「ハッキリ」していることが家族という単位をスムーズに営ませています。
会社の中でも同様です。役職という肩書きで上下関係がハッキリしており、そのことが企業という組織をスムーズに運営させています。このようにある程度の人間が集まった団体では上下関係は必要な要素と言えます。
それとは別に必然的に上限関係ができる場合があります。モノやサービスを販売する側と購入する側の関係です。全ての業種において購入側が上であり販売する側が下です。販売側は購入側の機嫌を損ねないように細心の気配りをしなければなりません。そこにはハッキリとした上下関係が存在します。
昔、知り合いの社長とお話をしたときのことです。社長はコピー機の営業マンを夜の9時に呼びつけた話をしました。「本当に買ってほしいなら今すぐに来られるはずだ」と言ったそうです。社長をやっている人ですから仕事に対する思い入れがそう言わせたのでしょう。そしてやって来た若い営業マンからコピー機の説明を受けたあと「ウチの商品を買ってくれたらコピー機を買う」と提案したそうです。結局、営業マンはその提案を断り帰ったのですが、社長は「本当に売る気概があるならウチの商品を買うよね」と言っていました。私は「夜の9時に呼びつけておいてその提案はないよなぁ」と 思ったものです。それ以来その社長とは会っていません。
営業マンを夜9時に呼びつけることができるのも社長が上で営業マンが下という関係があるからです。たぶん社長と営業マンが将来友だちになることはないでしょう。上下関係がある限り心を許しあえる間柄になることはありません。
昔読んだ本に有名評論家と元大蔵官僚の対談が紹介されていました。
有名評論家が「国家という親が国民という子供たちにお金を分配するのは限界がある」と言ったところ、元大蔵官僚は「国民が親で国家が子供である」という表現をしていました。つまり子供が税金という形で親にお金をあげている、と言ったのでした。憲法論議が盛んですが、国民と国家は「どちらが親か」と考えることはとても重要です。いえいえ、上下関係のある間柄に心を許しあえることはありませんから国民と国家の関係は親子の関係ではなく夫婦の関係がよいのではないかと思います。
昔、駅のホームで見かけた光景です。
どなたかを見送りに来たのでしょう。60歳過ぎの夫婦らしき二人が窓ガラス越しに車内に向かっ て手で合図をしていました。そこへ同年代のやはり夫婦らしき二人がやってきて二言三言あいさつをしたあと同じように車内に向かって手で合図をしました。その後電車は動きだし二組の夫婦は車内の人にお別れの手を振っていました。電車が見えなくなったあと二組の夫婦の会話が聞こえてきました。
二組の夫婦はご近所の方たちのようで奥様同士は仲良さそうに話していました。最初にお互いのご主人を紹介したのですが、そのときの両男性の仕草がとてもギコチなく見えたのが印象的でした。
上下関係のハッキリした企業で生きてきた男性たちは上下関係のない地域という場でどのように振る舞ってよかわからず戸惑っているように見えました。上下関係のない対等な立場で他人と接する態度や雰囲気がその人の本当の姿ではないかと思います。
作家のコラムを読み「僕もそんな夫婦になれたらなぁ」などと感動していたある日、ある文章と出会いました。
ある痴呆症のご老人を介護している方が書いた文章です。そのご老人は若い頃とても苦労をしたらしく多くの辛酸を舐めたようです。そして当時のことで辛かった話を何度も繰り返すのですが、 そのときに自分をいじめた人の名前をハッキリと言うのだそうです。他の記憶はほとんどないのに自分をいじめた人の名前は忘れていないんですね。
僕はその文章を読んで思いました。人間は「愛する」という感情だけでなく「憎む」という感情でも 記憶に残るんだな、と。
「な~んだ」
じゃ、また。