<ノブレスオブリージュ>

pressココロ上




 「地位の高い人には、それにふさわしい責務がある」という意味。
 今の小学校もあるのかわかりませんが、私が小学生の時分は道徳という時間がありました。「社会でいきるために欠かせない倫理観を子供たちに学ばせよう」という授業です。
 小学校では授業が終わると清掃をすることになっていました。清掃は班ごとの当番制になっており生徒たちは必ず毎月1週間は清掃当番をしなければなりません。清掃にもいろいろな種類があり床を掃いたり机を拭いたりとそれぞれに分担してやっていました。清掃の分担は話し合いで決めるのですが、みんなが嫌がるのは教室のうしろにある水槽の清掃でした。重いうえに水を移しかえたりと手間がかかります。また水槽が置いてある木の台が古く汚れていることもみんなが嫌がる理由です。どの班も水槽の清掃を誰が担当するかでいつも揉めていました。
 ある日、道徳の時間に森山先生が言いました。
「他人の嫌がることを率先してやろう」
 生徒たちが水槽の清掃を嫌がり押しつけあっていることを糾そうとしたのです。世の中の人が全員嫌なことを押し付けあっていては社会は成り立ちません。他人の嫌がることを進んでやる人こそ賞賛されてしかるべきです。
 今週紹介しています「私たちも不登校児だった」にはさまざまな理由で学校に行かなくなった、行けなくなった人たちが書かれています。不登校になる主な理由はいじめですが、その根本には相手を思いやる心が欠如しているように思います。これを市場原理主義の弊害と言ってしまってはステロタイプ的な発想と言われてしまうかもしれません。
 先々週、小学生が先生に注意されたあと自殺した、という事件がありました。新聞によりますと、元々生徒と先生の折り合いが悪かったようです。このような悲惨な結果を招く前にクラスを代えるなり担任を代えるなり、また転校するなりなんらかの対応がとれなかったのかと残念でなりません。もし仮に生徒に問題があったとしても先生は適切な対応をとる責務があったはずです。先生は生徒にとって地位の高い人なのですから…。
 「それくらい…」。よく見聞きする言葉です。人間は他人からみると「それくらい」のことで悩んだり傷ついたりしますが、当人にしてみると決して「それくらい」のことではありません。最悪の場合は死をも意識することもあります。社会は一人ではありません。自分以外の他人がいます。社会で生きていくには相手の気持ちを思いやる心まがえが必要です。それがなければ社会は殺伐とした世の中になってしまいます。
 今、読売新聞では「時代の証言者」という記事を掲載していますが、現在は元内閣副官房長官の石原信雄氏が登場しています。石原氏は歴代の首相についても書いていますが、一般的には悪いイメージを持たれている歴代の首相なども小学校時代に森山先生が言っていた「他人の嫌がることをやろう」を実行していたようです。日本の将来を考えて国民から嫌われるのを覚悟で間接税を導入しようとしていたからです。国民の嫌がることでも国の将来にとって必要と判断したなら反発を受けようが嫌われようが実行することが、日本で一番地位の高い首相としての責務です。
 私は全体的には小泉首相を支持しています。今まで「問題あり」とされながらも誰も手をつけてこなかった道路公団改革や郵政改革などに取り組んでいるからです。今までのやり方を変えることの難しさは民主党前原代表の辞任を見てもわかります。抵抗はとても強く厚いものです。その抵抗を受けながらも進めていることを評価しています。
 しかしその小泉首相が靖国参拝をすることには疑問を感じます。テレビである政治家が「個人的に靖国参拝をするのは自由だが、首相に在任中は参拝すべきではない」と語っていました。私も全く同感です。自分の信条はどうであれ相手の気持ちを思いやる配慮が足りないように思います。首相という一番高い地位にいる人にはそれにふさわしい責務があるはずです。
  I have a dream. 私には夢がある。それは小泉さんが今年は靖国参拝を行わず中国との首脳会談を実現させ関係修復をしてから退陣することです。
 それにしても中国があれだけ反発しているのにどうして小泉さんは靖国参拝を強行するのかなぁ…。不思議だよなぁ…。
 あっ…。
 もしかして…。
 勘違いしてるんじゃ…。
「他人の嫌がることを率先してやろう」
 じゃ、また。




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