<心の底から>

pressココロ上




 ワールドカップも日本の予選リーグでの敗退が決まり日本人の私としてはワールドカップに対する熱のピークが終わってしまった感があります。返す返すも初戦のオーストラリア戦が悔やまれます。スポーツに「たら」「れば」は禁句ですが、もし初戦に勝っていたならその後の2試合の流れも違ったものになっていたのではないでしょうか。
 大会で会場を埋め尽くすサポーターを見ていますと愛国心について考えさせられます。サポーターの応援風景からは心の底から自国を愛しているのが伝わってきます。そこには押しつけられた愛は感じられません。
 「心の底から」…私は経済誌の昔の記事を思い出します。
 アメリカに進出した日本企業の工場での出来事です。そこを訪れた幹部は「帽子を被る」という規則が徹底されていないことに不満を持ちました。そこで従業員を集めて言いました。
「皆さん、帽子を被りたいと思うような気持ちになってください」
 幹部としてはルールが守られていないことに苛立っていたのでしょう。まずは心の問題と考えたようです。しかしこの訓示に対して労働者幹部は反論します。
「“帽子を被れ”と言うのはいい、だが“帽子を被りたい”と思うようになれ、とは言うな!」
 心は個人がそれぞれ持つ大切な財産です。
 マンション耐震偽装事件の姉歯氏が「木村建設の篠塚支社長からのプレッシャーはなかった」と供述した、と報道されました。「事件の大きさに耐えられなくなり誰かに押し付けたかった」では篠塚氏があまりにかわいそうです。篠塚氏が無事に元の生活に戻れることを願ってやみません。しかしあれだけマスコミに追い回されバッシングされた心の傷は簡単に癒されるものではないでしょう。姉歯氏の国会での証言はヒョ-ヒョ-としたものでした。決して心の底からの発言とは思えませんでした。姉歯氏がいとも簡単に儀証言を認めたことを考えますと、心の底からでない言葉がいかに軽いものであるかわかります。
 新聞を読んでいましたら佐藤勝氏の新刊が宣伝されていました。鈴木宗男氏に関連してバッシングされ逮捕されたあの佐藤氏です。当時、バッシングの渦中においても佐藤氏は自分の主張を変えることはありませんでした。心の底からの主張は簡単に翻るものではないようです。またそのことは周りの人たちまでも変えてしまうのでしょう。現在のマスコミの佐藤氏に対する扱いは立派な作家でありロシア専門家です。心の底からの主張には重みがあります。
 先週は今までにこのコラムで何度か取り上げています光市母子殺人事件の最高裁判決がありました。遺族である本村氏はかねてより死刑を求めています。そのことの是非は別にして本村氏の言葉が心の底から湧き出ていることを感じない人はいないでしょう。それほど本村氏の言葉には信念に満ちた真摯さが感じられます。
 実は、私は本村氏の主張には賛成ではありません。それは本村氏の主張には「仇討ち」「復讐」といったイメージがあるからです。遺族の本当の辛さは、他人である私には理解できるはずはありませんがそれでも賛成ではありません。裁判が仇討ちや復讐のためにあってはならない、と考えているからです。世界の歴史が示すように「仇討ち」「復讐」は将来の争いの芽を産むことにつながります。平和で誰もが安心して住める世の中とは正反対の世の中になってしまいます。とはいえ、本村氏の主張に心の底からの真摯さを感じることには全く変わりはありません。敢えて言うなら「本村氏の主張には反対だが、本村氏は支持する」といったところです。
 心の底からの言葉や行動には人間を感動させるものがあります。そしてそれらは信念に裏打ちされています。さて、ホリエモン氏や村上氏のこれまでの言動は心の底から出てきたものかどうか…。
 ある日、家に帰りますと妻が玄関で大人の上半身は入るほどのダンボール箱と向き合っていました。妻は僕を見ると「いいところに帰ってきた。ちょっと手伝って」と言いました。ダンボールの内側にテープを貼るのに一人では難しかったようでした。早速僕はテープを手に上半身を箱の中に突っ込みました。どこに貼るのか確認のために上半身を入れたまま妻に聞きました。僕の背中越しに箱の中を覗いていた妻が僕の指先を見ながら指令を出しました。
妻「そこそこ」
僕「えっ、どこ?」
妻「だ・か・ら、そこ!」
僕「えっ、どこのそこ?」
妻「底のそこ!」
僕「そこの底?」
妻「ち・が・う! 底のそこ!」
 世の中に話の噛み合わない人っていますよねぇ。
 じゃ、また。




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