<いじめ考>

pressココロ上




 住宅街を歩いていましたら子供たちの声が聞こえてきました。
「グーリーコ」「チヨコレイト」「パイナツプル」
 僕はとても懐かしく感じました。グー・チョキ・パーのジャンケンをして勝った人がその勝ったジャンケンの分だけ前に進める遊びです。例えば、グーで勝ったら「グリコ」ですから3歩しか進めません。チョキで勝ったら「チヨコレイト」ですから6歩勧めます。パーも「パイナツプル」で6歩です。
 もちろんチョキやパーで勝ったほうが得なのですが、自分の思惑通りにできないのは人生と同じです。地道にグーで勝ち続けたほうがゴールに先にたどり着く可能性もあります。金融界ふうに言うならリスクをどう取るかかが勝負の分かれ目です。
 僕が見かけた子供たちはたまたま3人で遊んでいました。「3人か‥」。僕は昔読んだ自己啓発の本を思い出しました。その中には次のようなお話が書いてありました。
職人さんが小学校の周りに塀を作っていました。そこを通りがかった子供たちが尋ねます。
「おじさん、なにをしてるの?」
職人さんは答えます。
「ブロックを積み上げているんだよ」
子供が先に進むと違う職人さんがいました。子供たちはまた尋ねます。
「おじさん、なにしてるの?」
職人さんは答えます。
「塀を作ってるんだ」
子供たちがさらに進むとまた違う職人さんがいました。また子供たちは尋ねます。
「おじさん、なにしてるの?」
 職人さんは答えます。
「君たちこどもが危険な目にあわないように塀を作ってるんだ」
 自己啓発の本ですから、当然「最後の職人さんのように仕事をしましょう」と教えているのですが、ではほかの職人さんたちは役立たずなダメな人間と烙印を押してもいいのでしょうか…。
 いじめによる子供たちの自殺が連日報道されています。いじめのきっかけは様々です。容姿であったり性格であったり、または動作であったり態度であったりですが、共通しているのは「周りの人と違う」ことです。
 私は、いじめられる一番の理由は「友だちがいない」ことだと思っています。「ひとりぼっち」であり「孤独」であることです。もし仲がよい友だちがいたならいじめの対象にはならないでしょう。大人になると集団の中で孤立しない方法を身に着けるものです。例えその術が誤魔化しであろうととにかく生きていくことができます。もしその術がないとしてもその集団を離れることもできます。しかし子供はそれらができません。
 私はいじめによる自殺の報道が悲しくてならないのです。どうして多くの人数でたった一人の人間を虐げることができるのでしょう。たまに「いじめられるのは理由がある」といった意見もありますが、それには大反対です。どうしていじめられている側が責任を負わされるのでしょう。
 マスコミの論調では「学校の責任を追及する」傾向がありますが、それにも反対です。いじめる側の親にも責任があるはずです。また、いじめられる側の親にも責任があります。親は自分の子供の少しの変化にも気づくのが義務です。教師も同様です。先日のテレビに出ていた校長先生は「今はメールなどがあり、いじめに気づくことができない」言っていました。確かに簡単には「いじめの存在」を把握することは難しいでしょう。しかし日々教室で子供に接しているのですから「いじめ」を見抜いてこそ教師のプロと言えるはずです。もし民間企業で、お客様の気持ちが見抜けなかったなら倒産するのは必至です。
 このように考える私ですから、いじめの一番の責任は周りの大人にある、と思っています。大人たちが誰に対しても差別することなく平等公平な態度で接するなら子供たちも見習うはずです。たとえ仕事の能力や社会的地位が低い人がいたとしても差別したり見下したりしない見識を持つことが大切です。
 子供たちの遊び声を遠くで聞きながら、気がついたことがあります。
「この遊びは差別をしていない…」
 「チョコレート」の小さい「ョ」や「パイナップル」の小さな「ッ」をそれぞれ「ヨ」や「ツ」と大きく発音しているからです。小さなモノを無条件で大きく表現しているのは感動です。
 じゃ、また。

紙.gifジャーック!




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