<藪の中、心の中、森の中>

pressココロ上




 テレビニュースを見ていましたら本村洋さんが出ていました。ご存知の方も多いと思いますが、1999年に山口県光市で起きた殺人事件の遺族の方です。24日に開かれる差し戻し控訴審に際しての記者会見でした。
「私は他人のためには涙は流さない」
 本村さんが語ったこの言葉について、私は今までに幾度かこのコラムに書いています。私はこの言葉から「人間は自分の身の回りのどの範囲まで真剣に自分のこととして向き合えるか」ということを考えさせられました。私自身が、アフリカで苦しんでいる子どもたちについて真剣に悩むことができないからです。そして出会った言葉が
「人間は責任を負わなくていいことほど優しくなれる」
「人は遠くにあることほど正義を叫ぶ」
でした。
 現在、裁判に関して「遺族と裁判の関わり方」が問題提起されているようです。もっと「遺族が裁判に関われるようにするべきだ」という考えです。遺族の気持ちをもっと裁判に反映させたい、という考えです。
 今、この瞬間にも世界では紛争がいろいろな地域で起きています。特に民族間における紛争は根深いものがあります。それらが解決できないでいる大きな要因は「お互いの恨み」ではないかと私は思っています。
 本村さんも幹事を務めています「全国犯罪被害者の会」という組織があります。会の代表幹事は元弁護士会副会長の弁護士の方ですが、代表の方は弁護士会副会長を退任後に奥様を事件で失っていました。弁護士会の副会長まで務めた方ですので数多くの事件を扱っていたはずです。しかし自分が被害者になって初めて被害者の気持ちがわかったそうです。人間は実際に体験しなければ当事者の本当の気持ちはわかりません。
 いじめは今や学校に限らず職場でも起きているようです。先日の新聞には学校の教師の悩み相談が載っていました。その相談内容の上位に「教師間のいじめ」がありました。教師の世界にいじめがあるのにどうして生徒のいじめを解決できるでしょう。
 それはともかく、いじめは「したほうは忘れてもされたほうは忘れない」ものです。そして「されたほう」は一生許すことはできないでしょう。
 世界で起きる紛争にも共通する部分があります。相手に対する恨みや憎しみは当事者にしかわかりません。それらが紛争解決を妨げています。
 さて、裁判です。
 刑事裁判においては原則的には「疑わしきは罰せず」のはずです。もし誤って犯人にされてしまったなら「人生は終わり」です。先月、冤罪が確定した男性がいましたが、男性は訴えていました。
「俺の人生を返してほしい」と。
 人間一人の人生を左右するほどの裁判ですからそこには慎重さが求められます。事実をひとつひとつコツコツと積み重ねることが大切です。そこでは事実のみが語られるべきです。決して感情、つまり心の中が入り込むべきではない、と私は考えます。
 小説「藪の中」では「ひとつの事実」であるはずの事実が、語る人間によってひとつの事実ではなくなっています。それはそれぞれの心の中が語られるからです。心の中にある感情が吐露された言葉は決して解決への道を照らすことはできません。紛争が恨みや憎しみで終わらないのと同様に…。
 というわけで私は事件の当事者が裁判に深く関わることに疑問を感じているのです。
 とは言え、実は私はまだ考えあぐねているのです。まだ迷っているのです。私の考えは正解なのだろうか…と。
 私の考えは森の中。
 じゃ、また。

紙.gif4コマ漫画
ジャーック!




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