<オッさん>

pressココロ上




 僕が自転車でよく通る道の途中に団地があります。僕はその道を通るときはいつも団地の中を通り抜けているのですが、そこにちょっとした広さのスペースがあります。そのスペースは車が一台駐車できるほどの広さです。以前はその場所には普通の車が駐車していました。それも毎日というわけではなく、そして車の種類も毎回同じではありませんでしたのでたぶん団地にお住まいの方が無断で駐車していたのでしょう。ですので車が駐車していないときもありました。
 いつからでしょう。いつの間にかその場所に野菜や果物を積んだトラックが駐車するようになりました。巷の噂では午前11時くらいにやってきて午後は6時頃に帰るそうです。僕の記憶では4~5年前からくるようになったように思います。本来ですとその場所は団地の敷地内ですから団地住民から苦情がきたなら停めることはできなくなるはずです。しかし今もまだきていますから住民からも認められているのでしょう。
 トラックを運転してやってくるのは男性です。見た感じは60才~70才の間でしょうか。頭髪はほとんどなく目はくぼんでおり顔にはシワが刻まれ全体的に痩せています。服装は、小奇麗とはほど遠く外見には全くこだわっていないようです。夏などは今で言う「ロンパン」、昔風に言うなら「ステテコ」一枚の格好で野菜を売っている姿も見かけました。「売っている」と書きましたが、そうなのです。男性は移動八百屋さんです。そしてその外見や動作から「オッさん」に相応しい雰囲気を醸しだしています。
 オッさんのトラックは移動八百屋さんですが、その場所に着いてからはそのトラックは完全に店舗となります。荷台一杯に積んだ品物をトラックの周りに広げます。もちろん陳列棚などありませんからダンボールに入れただけの野菜や果物を広げるだけです。その中心にオッさんは椅子を構え座りお客さんを待っています。
 人間は不思議なもので、その道を通るときその場所にあのオッさんのトラックが停まっていないと淋しさを感じます。「どうしたんだろう。風でもひいたのかな…」などと勝手に心配してしまいます。
 オッさんの店はチェーンに加盟しているわけでもなく組合に入っているはずもありませんからその売り方は気分次第です。自分の気の向くまま売りたいときは売るし売りたくないときは運転席に座り新聞を読んでいます。たまに荷台に寝てイビキをかいている姿も見かけます。本来の商売人の姿からするとあってはならないことでしょうが、オッさんには相応しい商売のやり方かもしれません。
 僕は社会人になってから自己啓発本や企業人の自伝や起業家の成功物語本をたくさん読んできました。そこに書かれている内容はどれも感心することばかりで自分自身が触発されることがたびたびでした。そうした本に出てくる人物像とオッさんは対極にあります。僕が30才代の頃はオッさんのような商売のやり方は否定していました。商売、もっと広げて言うなら仕事に対するスタンスはもっと緊張感を持ち常に成長する気構えで臨まなければならない、と考えていました。今もその考えに変わりはないのですが、オッさんのようなやり方も「あり」ではないかと思うようになりました。年をとったので許容範囲が広くなったのかもしれません…。
 自分の気分次第で仕事をすることも「あり」ではないか、とは思いますが、それには前提があります。それは会社に属していないことです。会社に属しているならやはり気分次第で働くのは許されないことです。会社から給与をもらっているのですから当然です。オッさんのように、売れなければ損を被るのは自分自身であり誰にも迷惑をかけないことが前提です。そうであるなら自分の気分次第で働くのも一概に悪いことと決められません。
 ただ、仕事をする人が全員、オッさんのように仕事に取り組んでいたなら社会の進歩がなかったのは間違いありません。今の豊かな社会はこれまでの企業人や起業家が生き残りをかけて必死になって働いたおかげです。基本的に仕事は自分を成長させるものですし困難や障害を乗り越えるために常に戦う姿勢で臨まなければなりません。しかし年を重ねるに従って僕は「そうした姿勢だけが正しいのか」と疑問を持つようになりました。
 いわゆる経営・経済評論家と言いましてもそのスタンスはさまざまですが、大きく分けて経営寄りと労働寄りに分けられると思います。書店に並んでいる自己啓発本などは経営寄りのスタンスのものが多く著者も有名な人がたくさんいます。その反対に労働者のスタンスに立つ評論家としては佐高信氏や内橋克人氏などがいます。僕が佐高氏に共感を覚えたのは「精神まで経営側の都合のいいようにコントロールしようとするシステム」に対して批判していることでした。
 例えば、自己啓発本などでは「100軒訪問して断られても次の101軒目に契約が取れるかもしれないから頑張れ」などと書いてありますが、佐高氏はそうした「頑張れ本」や「あきらめるな本」は経営側にとって都合のいい人間を育てるシステムの一環に過ぎない、と一蹴しています。佐高氏は、一般には尊敬されている松下幸之助氏や稲盛和夫氏までも批判しています。経営側の評論家の方たちからしたら納得しがたい考えでしょう。
 先日、新聞を読んでいましたら現在売り出し中の経済評論家勝間和代氏がコラムを書いていました。勝間氏が自分自身の時間の使い方を披露していたのですが、その無駄のない一日の時間の使い方はやはり非凡でした。当時の最年少記録で公認会計士試験2次試験に合格するなど持って生れた頭のよさもあるのでしょうが、その努力の仕方も半端ではありません。仕事をしつつなおかつ勉強もしそして母親としての役目も果たしているのです。「すごいな!」と感心しつつ、しかし普通の人が同じように「無駄な時間を省いたエネルギッシュな一日を毎日過ごせるか?」という思いもわきました。少なくともお笑い番組や2時間ドラマなどテレビ大好き我が妻は無理です。これは僕が松下幸之助氏や稲盛和夫氏などと同じくらいの努力で仕事への取り組みができないのと同じです。野球少年が全てイチローになれないのとも一緒です。
 先々週でしたか、女子マラソンの高橋尚子選手が不本意な順位でレースを終えました。レース後の会見で
「みなさんに『あきらめなければ夢はかなえられる』ことをお見せできなかったことが残念です」
 といった内容のコメントを話していました。やはり「どんなにあきらめなくても」夢がかなえられるとは限らないのかもしれません。
 最近、「なるほど」と思ったのは「夢がかなうまであきらめなければ失敗とは言わない」というキャッチコピーです。確かにそうです。ずっと挑戦している間は結果としての失敗は「まだまだ先」ということになりますから理に適った言葉です。
 そこで思い浮かんだのが、株についての本です。
 基本的に、株は「上がるか」「下がるか」しかありませんが、その確率は「大数の法則」で決まっているそうです。
 「大数の法則」とは、簡単に言ってしまうと、コインを投げて表と裏の出る確率は回数を増やせば増やすほどその確率は同じになる、ことです。
 その株の本によりますと、たとえ一回予想が外れても「大数の法則」によりいつかは当たることがありますので投資額を増やす必要はありますが、ずっと続けていくなら損をすることはないそうです。問題は「いつ当たるかはわからない」ことです。つまり「当たるまで生きていられるか」そして「投資金が続くか」が問題です。「挑戦し続ける」にも限度があります。
 人生においても「あきらめなれば」失敗はありませんが、時間という制約は誰も避けて通れない障壁です。生きている間に成功しなければやはり失敗となってしまいます。失敗は現実問題としてやはり存在します。
 失敗しないためには勝間氏のように生きる必要がありますが、先ほど書きましたように誰でもができる生き方ではありません。勝間氏とは対極にいるオッさんのように生きる人生があってもなんら非難されるべきものではありません。人生は当人が決めるものです。
 さて、読者の皆さんはどちらの人生を目指しているのでしょう。
 僕に関して言いますと、オッさんのような仕事ぶりよりも勝間氏のような仕事ぶりを目指しています。実際にできているかどうかはともかくやはり時間を無駄にせず一日を有効に使いたいと思っています。松下氏や稲盛氏のような生き方を尊敬しています。でも…。
 僕はお店にいるときは販売に相応しい服装を心がけています。ですのでお店を離れるときは服装を普段着に変えて出かけます。
 先日、買い物に行った帰りにお店に向かって歩いていますと高校生くらいの男子が二人当店の商品を食べながら歩いてくるのに出くわしました。僕としてはうれしい光景ですが、すれ違いざまに聞こえてきた二人の会話は僕を少し戸惑わせました。
「今日、いつものオッさんがいなかったな」
 僕は他人から見ると立派に「オッさん」なのでした。
 じゃ、また。

紙.gif4コマ漫画
ジャーック!




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