<石を投げる覚悟>

pressココロ上




 僕が小学4年生の頃のお話です。僕と小室君を含む数人は学校近くの栄町公園で遊んでいました。すると同じ学校の6年生たちがやってきて「おまえら邪魔だからどけ」と言ってきました。僕たちは仕方なく公園から出ようとしたのですが、小室君だけは反発しました。「僕たちのほうが先に来てたんだから…」と6年生たちにくってかかったのです。小室君と6年生は言い争いになりました。
 しばらくは口げんかだったのですが、次第に興奮し6年生のひとりが小室君を突き飛ばしてしまいました。倒された小室君はひるむでもなくあたりを見渡しこぶし大の石を拾うとそれを投げつけようと右手を上げました。そのときです。近くのベンチで喧嘩を見ていたおじいさんが大きな声で叫びました。
「待ちなさい!」
 おじいさんはゆっくり立ち上がると小室君の傍らに行き、諭すように言いました。
「もし石が当たって相手がケガをしたら大変なことになるよ。君は弁償することができるの?」
 おじいさんの顔を見つめていた小室君はゆっくりと右手を下ろしました。
 理由はわかりませんが、最近、仕事から帰るときに交番近くの交差点に警察官が立っていることが多いのです。たぶん目的は自転車の取り締まりなのですが、なぜ取締りを強化しているのか不思議です。たまに警察官二人に挟まれている若い人を見かけますが、同情の気持ちが湧いてきます。
 僕の経験では、無灯火の自転車は必ず止められますが、点灯していても止められる人もいます。そういう人は決まって若い男性か、身なりのみすぼらしい中年男性です。無灯火でも若い女性などですと、軽く注意をされるだけですが、若い男性などが無灯火で走っていますとしつこく引き止められます。
 そのときに防犯登録がきちんとされている自転車ですと問題ありませんが、登録がされていないときはさらに面倒になります。ときには交番まで連れていかれることもあります。もしこのきに反抗などしようものなら一騒動に発展することもあります。一人の人間の自由を奪う権利を持っているのですから警察は強大な権力を持っています。
 以前、書いたことがありますが、あるラジオのアンケートでは警察署や交番の前を通るとき、多くの人が心に幾ばくかの緊張感を感じるそうです。悪いことを全くしていなくとも普通の人の心を構えさせるだけの威力が警察にはあります。
 僕の高校時代の部活動の仲間に警察官になった友だちがいます。その彼が大学卒業後、警察官になったという話が広まったとき、僕を含め高校時代の同窓生は皆驚きました。理由は、彼が学校一の遅刻常習犯だったからです。それほどルーズな性格の彼が規律が最も厳しいであろう警察官になったのですから皆が驚いて当然でした。
 因みに遅刻常習犯の第二位も同じ部の仲間でした。当時、同じ学年の部員は5人しかいませんでした。そのわずか5人のうちの2人が遅刻常習犯の上位ワンツーだったのですから、顧問の先生は職員室で肩身の狭い思いをしていたそうです。
 それはともかく警察官になった彼の結婚披露宴はよく言うと壮大、悪く言うと異様でした。そのような雰囲気を披露宴会場を埋め尽くす警察官の同僚の方々が醸しだしていました。全員が全員、短髪で鋭い目つきをぎらつかせガッシリした体格の男どもが会場を埋め尽くしていました。見方によっては警察と正反対の暴力団の集まりと言ってもおかしくない雰囲気でした。こうした特殊な雰囲気も権力を持つ警察だからこそ出てくるものです。
 先週、新たな冤罪が報道されました。僕はこういう報道に敏感に反応してしまうのですが、当人の怒りや悔しさはいかばかりでしょう。記者会見で「絶対許さない」と語っていましたが、当然の気持ちです。いくら謝罪され補償金を得られたとしても自由を奪われた年月を取り戻すことはできません。今回の結果を受け、検察は「冤罪を生んだ経過を検証する」と談話を出していますが、遅きに失した感があります。
 新聞報道(読売新聞)では、DNA鑑定の精度について書いていますが、僕はそれよりも自白が作成されたことに注目すべきだと思っています。犯人でない者が自白をしたことになるのですからその経過を注意深く検証すべきです。冤罪で犯人とされた人たちの話には必ず「自白強要」が出てきますが、そのときの警察関係者はどのような気持ちで取調べをしていたのでしょう。少なくともそこには「真実を追究する」という気持ちはなかったように思います。そうでなければ無理矢理「自白調書」を書かすようなことはしないでしょう。
 ビジネスの世界では昔から、公務員を批判するときの常套句として「親方日の丸」という表現がなされます。どんなに、個人として仕事上で失敗をしようが、組織として業績が悪かろうが、クビになることはありませんし、倒産することもありません。最後は国が尻拭いをしてくれるからです。そこには個人にしろ組織にしろ責任がないがしろにされています。人間は責任を負わなくてもよいときには真剣に仕事に取り組まないものです。
 裁判で有罪となった場合、犯人の受ける制裁は肉体的なものにとどまりません。マスコミなどで大々的に報じられることにより、世間から冷たい目で見られ、親類縁者からは縁を切られたりもします。待っているのは孤独でしかありません。このときの精神的な苦痛は肉体的苦痛より過酷と言えるものです。それに対して冤罪を作り出したしまった警察関係者、検察官、裁判官の責任の取り方はあまりにも曖昧となっています。これでは不公平です。
 この不公平を正すには、冤罪を作り出してしまったときは、警察関係者、検察官、裁判官などの情報をマスコミで報じるようにするのも一つの方法ではないでしょうか。そうすることにより、取調べに対しても責任を持って真剣に臨むようになるでしょうし、自白強要などなくなるのではないかと思うのですが、どうでしょう。
 もちろん、昨今問題になっている「取調べの可視化」は実現されるべきものと僕は思っています。
 
 イエス・キリストは、女が姦淫の罪で民衆から石を投げつけられているところに出くわしたときに言っています。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
 石を投げるには、それ相当の覚悟が必要なはずです。
 ところで…。
 僕は40代後半から老眼になりましたが、それ以降も年を重ねるごとに度が進んでいます。そのたびに眼鏡を度の強いものに変えていますので、度が合わなくなった眼鏡が溜まっていました。
 そんな折、僕が年をとるのと同様に妻も年をとることが判明しました。そうです。妻も老眼になったのでした。
「文字がなんかぼやける」
 妻の言葉に、僕は自分が使わなくなった老眼鏡をかけて文字を読むことを勧めました。…やはり、「文字がハッキリする」と言うではありませんか。間違いなく老眼です。
 そんなこんなで妻は僕が使わなくなった眼鏡をかけるようになったのですが、あるときあることに気がつきました。
 僕の斜め横で、妻が眼鏡をかけながら新聞を読んでいたのですが、読み終わったあとに眼鏡をはずしました。僕の位置からはちょうど妻の横顔が見えました。すると、妻の目尻の高さのところに一本の細い窪みを発見しました。ちょうど眼鏡のフレームから耳まで伸びているテンプルがあたっていた付近です。これはなにを意味するのか?
 僕は眼鏡をかけてもその付近にテンプルの跡が残ることはありません。そうです。妻の横顔に残っていた一本の細い窪みは、妻の顔が僕の顔より大きいことを示しているのでした。
 へへへ…。2週続けて妻の顔のデカさのお話でした。
 じゃ、また。




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