<体験記>

pressココロ上




 僕が20代前半、妻と結婚する前でまだ愛し合っていた(?)頃です。なんのきっかけだったかは忘れてしまいましたが、とにかく妻と二人で知り合いの中年女性の家に遊びに行くことになりました。中年と言いましても若い中年で確か30代半ばだったように記憶しています。
 さて、女性宅に上がり世間話をしていましたが、若い恋人同士が連れ添って遊びに来ているのですから、話題は自然と恋愛にまつわる話になりました。当時、その女性は女手一つで幼稚園児と小学生低学年の子供を育てていました。ご主人はいなかったのですが、その詳しい理由までは知りませんでした。
 僕たち二人を見ながらその女性は「自分が20代だった頃の恋の話」をしてくれました。女性は最初のうちこそ青春時代を懐かしむように楽しげな語り口でしたが、話が進むにつれ次第に感情をこめるような話しぶりに変化してきていました。女性の話は「つき合い始めたきっかけ」から「楽しい時間を過ごしたデート」、そして「別れるに至った経緯」までこと細かに描写されていました。そして話も佳境に入り最後の別れのシーンを話しているとき、女性は当時の自分の心境を思い出し、感極まって涙を流し始めました。大粒の涙をポロポロ流しながら必死に話していました。そして話し終わるとついには大きな泣き声とともに両手で顔を覆ってしまいました。
 そのあまりに興奮した振る舞いに僕たちはどう対応してよいのかわからず「ただただ」二人して顔を見合すことしかできませんでした。結局、しばらく時間が経ってから漸く気持ちも落ち着き、普通に話すことができたのですが、人間というものは、特に女性は、恋愛について他人では窺い知れない深いシワを心に刻むのでしょう。そして、人間は、自分の人生では自分がヒロインでありヒーローになることができます。
 僕は本を読むのが好きですが、その選考はビジネス関連とノンフィクション系です。いわゆる小説と言われるものはほとんど読みません。基本的には「仕事に役立つヒントはないかな」という発想ですのでビジネス関連、そしてノンフィクションでも起業に挑戦した人とか組織のトップに上りつめた人の体験記などを好んで読みます。
 20代の頃は自己啓発本をよく読んでいましたが、こうした本を読み続けていますと、ほとんど同じ内容をただ「言い方を変えてあるだけ」であったり「時代に合わせた書き方に変えたあるだけ」であったりすることが多く自然と興味を持たなくなりました。まぁ、僕の年齢が年齢ですので、啓発に対応するのが億劫に感じるようになったのも理由の1つかもしれませんが…。
 先週はちょっと古いですが、作家の志茂田景樹氏の「落ちこぼれた俺の這い上がり方」という本を読みました。題名にあるように「落ちこぼれた」人が流行作家になるまでの青春の軌跡が綴られているのですが、現在「落ちこぼれて」いると思っている方には勇気を与える内容ではないでしょうか。
 本の内容はとても面白かったのですが、実は僕がこの本で一番興味を抱いたのは本の最後のほうに書いてある広告でした。そこには当時その出版社が販売しているビジネス本のタイトルがズラリと並んでいました。
 先ほど「ちょっと古い」と書きましたが、この本の出版は昭和59年ですから今から20年以上前の本です。それほど古い本の中で宣伝されているタイトルが現在でも古臭く感じないタイトルなのです。もちろん20年以上前ですから今ではほとんど見かけない著者名ですが、タイトルは今でもどこかの本屋の棚で見かけそうなタイトルでした。当時も今も「売れそうな本のタイトル」は同じという証ですが、ビジネスマンという人種は20年前からあまり進歩していない人種かもしれません。
 ビジネス本には自己啓発本や経営ノウハウ本などいろいろな種類の本がありますが、その内容の信憑性、真実性については確固とした裏づけがあるわけではありません。また、読者により本の内容に対する適応性といった問題もあります。人間は個人個人の性格や資質が違うのですからその人に合った考え方ややり方があって当然です。しかもそれ以前に、書いてある内容の普遍的な正確性もあります。書いてあることが必ず正しいとは限らないのです。
 僕は、20代の頃に読んだ本に感化されしばらくの間、その本の内容を仕事をするうえでのバックボーンとしていました。しかし、後年実際に自分がいろいろな経験をしたり、またはその本とは異なる考えを主張している本に出会ったりしながら、それまでの僕のバックボーンとなっていた本について疑問を感じるようになりました。つまり、最初に僕が信頼した本は僕にとっては本当は相応しくない本であったことになります。
 僕は自分でも体験記を公開していますのでこう言うのもなんですが、体験記を丸ごと受け入れるのは問題です。体験記が常に真実性を担保しているとは限りません。基本的に自伝には「隠蔽」「合理化」、そして「思い込み」が入りやすいと言われています。脳科学者の養老孟司氏の本などを読みますと、人間の記憶がいかに頼りないものであるかわかりますが、記憶の能力以前に無意識の脳の働きにより客観性に欠けているのは否めません。僕の体験記も例外ではない、と自覚しています。
 10年ほど前、妹尾河童の「少年H」という本が「事実と異なる」として物議をかもしましたが、重箱の隅をつつくようにしてまで正確性、客観性を自伝に求めるのはあ無理があるように思います。先ほども書きましたように人間の記憶には限界があるのですから細かいところまで正確性を求めるのは無理というものです。自伝や体験記を読むときは、もっと大らかに読んでもいいのではないでしょうか。重要なことは読む側がその中から真実を1つでも2つでも見つける判断力を養うことです。そして、これは自伝や体験記に限ったことではなくあらゆる情報に接したときに必要とされる能力であると思います。
 オウム真理教に入信し殺人犯となった人の中には高学歴のある人もいました。その人たちの過ちは麻原教祖の教義を盲信したからです。もしその教義に対して少しでも考える気持ちの余地があったなら犯罪を犯すこともなかったでしょう。
 情報は上から下から右から左から、あらゆる角度から思索する余裕を持って接したいものです。
 …口当たりのいいマニフェスト。本当に実行できるのかなぁ。
 ところで…。
  連休中にNHKのドキュメント番組を見ました。派遣切りに遭ったあと生活が苦しくなった32才と40才の関西の男性を取材していました。どちらの方も真面目そうですし仕事の能力が特に劣っているようにも見えませんでしたが、なかなか再就職ができないようでした。番組を見ていて「なんか世の中って不公平だよなぁ」などと思いました。
 番組を見終わったあと、僕は妻に番組内容について僕の感想なども交えながら話しました。僕の話を聞いていた妻は僕が話し終えると僕に共感するかと思いきや、反対に冷たく言い放ちました。
「ねぇ、人の心配より自分の心配したら」
 ああ、そうでした。最近、売上げが悪いんですよねぇ。
 じゃ、また。




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