<時間>

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 ラーメン店開業のテキストで、自宅と店が同じ建物内であったり近かったりしたときに、プライベートに仕事が入りこんでくる問題点を紹介しました。せっかくの休みの日に、仕事を離れてリラックスする時間が持てないことはとても苦痛です。これは、店を構える仕事に限らずほかの業種でも言えることです。
 僕は、数年間保険代理業を営んでいましたが、近隣に住む知人にはできるだけ保険を売らないように心がけていました。万が一、なにかしらトラブルがあったときにそれ以降のプライベート生活に悪影響が生じる恐れがあるからです。保険でよくあるのは「保険金が出ると思っていたのに出ない」ケースです。どの業界でも同じですが、販売に際して、いくら丁寧に説明をしていても、問題が起きたときになって「そんな話は聞いてない」などと言い出すのがお客様です。実際には販売前に説明をしてあっても、自分の思い通りにならないときは「そんな話は聞いてなかった」となることがあります。自分がプライベートを過ごす地域で陰口や悪口を言われては気持ち良く生活を送ることなどできません。最悪の場合は、転居を余儀なくされることさえありえます。それほどお客様の立場になった人というのはわがままです。
 最近、スーパーに行って目につくのは食品売り場のサッカー台(清算を終えた商品をレジ袋に移し変えるための作業台)下やサッカー台近くに設置されているゴミ箱の中身です。一時期、自宅のゴミをスーパーやコンビニのゴミ箱に捨てに来る人が増えたことが問題になりました。さすがに、最近ではゴミ箱に「自宅のゴミ持ちこみ禁止」とポップが貼り出されていますので、ゴミを持ちこむ人は減っているようです。
 その代わり、最近のお客様は自宅に持ち帰ってゴミになりそうなものを最初からスーパーで捨てる行為に変更しているようです。サッカー台近辺のゴミ箱にはトレーやラップが汚らしく捨てられてあります。それらのゴミに気がついたのは1年ほど前ですが、そのときは深く考えることもなく見過ごしていました。しかし、あるときレジで清算を終えたお客様の行動を見て驚きました。
 その人たち(家族でした)は清算が済んだ商品を買い物カゴからレジ袋に移し変えるとき、生鮮食品などの入れ物であるトレーのラップを剥がし中身の商品だけを取りだし、サッカー台に備え付けてあるビニール袋に放りこんでいました。そして、トレーとラップをゴミ箱に捨てていたのです。たぶん、できるだけ「ゴミを自宅に持ち帰らない」意図があるのでしょう。その光景を目にしてから注意を払ってサッカー台にいる人たちを見ていますと、同じようにしている人が少なからずいました。
 今週の本コーナーでは「カネ儲け至上主義に落ち込んだ罠」という本を紹介しています。モラルや倫理観を顧みることなく「お金儲け」だけを考えて経営・経済活動をしていたホリエモン氏や村上氏らを批判した本ですが、サッカー台でトレーなどを捨てている人たちも、根底ではホリエモン氏らの意識とつながっているように思います。つまり、「自分だけが得をすればよい」という発想です。
 最近の日本人には、昔の日本人が持っていたモラルや倫理観といった美徳が失われている、と嘆く人たちがいます。このような人たちは主に中高年以上の人たちに多いように思います。そして、最近のギスギスした社会に警告の声を上げています。ですが、そのようなギスギスした社会にしているのはまぎれもなく社会を構成している自分たちであることを自覚する必要があります。特に、トレーなどをサッカー台のゴミ箱に捨てて帰る大人たちを育てたのは、中高年以上の人たちであることを忘れないでほしいものです。それにしても、サッカー台のゴミ箱にトレーなどを捨てる人たちが持つ「自分たちだけが損をしなければいい」というの行為はお客様という立場にいるからこそできる行為です。
 先に書きましたように、「近隣の人をお客様にする」ということはプライベートに仕事が入りこんでくる可能性が高いことですが、そのような状況を強いられますと、自分の時間のスケジュールが立てることが困難になります。
 一般的に、仕事上だけの関係の人とはある程度関係が深まったとしても、やはりどこかハードルが高いものがあり、分からないことがあったとしても気軽に問い合わせをするのを躊躇するものです。それに比べ、仕事以前から顔見知りであったなら、仕事上だけの関係の人よりはハードルが低い分、気軽に問い合わせることもできます。気持ちの持ちようが違うのですから当然の行動とも言えます。
 このように、気軽に問い合わせができる関係であることは、サービスを受ける側にはメリットですが、反対にサービスを提供する側にとっては大きな負担です。そして、このような状況で、受ける側の「時間に対する認識」がずれているときは、提供する側はさらに負担を強いられます。
 この「時間に対する認識」がずれている人は「少しくらい」とか「自分ひとりくらい」と考えがちです。この発想には「相手の時間を消失させる」という「相手の立場に立つ」考えがありません。ですが、実際は「少し」が積み重なれば「たくさん」になりますし、「自分ひとりくらい」と考える人が大勢いたならやはり「たくさん」となってしまいます。それ以前に、「少し」とか「自分ひとり」という発想は自分が考える量であり、相手にとっては「少し」でも「ひとり」でもないかもしれません。
 弁護士さんなどは規定があるようで、「相談するだけ」でも時間制でお金を取ります。例えば、「30分で5,000円」くらいが相場でしょうか。普通、ほかの業種では「相談は無料」というのが一般的ですから弁護士という仕事は「なんか胡散臭いわよねぇ」、と知り合いの60才過ぎの主婦が話していました。確かに、たかだか話を聞くだけでお金をとるのは「お金亡者」の印象を与えるのが普通かもしれません。
 現役の開業医の方の本を読んでいましたら、「電話で問い合わせてくる人がいる」と書いてありました。問い合わせる人にしてみますと、「ちょっとだけ相談してみよう」という心つもりなのでしょう。しかし、医師にしてみますと、来院している患者を診ている最中や合間に電話に出るのは時間を取られることになります。電話で答えている間に「もう一人診察ができる」かもしれません。もちろん、診察するのは収入になりますが、電話での問い合わせでは収入は発生しません。電話で問い合わせた人は、開業医の収入の一部を奪っていることになります。
 1日の時間は誰でも同じで24時間と決まっています。その限られた時間を第三者のために費やすことは、それだけほかのことに使う時間を減らすことです。例え、相談だけであったとしても、相談を受ける側はその時間を相談に費やすことになるわけですから、同じです。
 最近の日本人には、相手の立場になって考えるという発想が失われつつあるように感じます。特に、相手の時間を奪うことに対して鈍感なような気がします。あまりこのような考えを強調しますと、まるで時間をお金に換算する「お金亡者」のように感じるかもしれませんが、決してそうではありません。一部の人たちが言うように、時間単価の金額については議論の余地がありますが、収入に関してだけでなく、相手に時間を取ってもらうことは、それだけ相手の時間を奪っていることです。もしかしたなら、もっと楽しいプライベートタイムを過ごせるかもしれません。誰しも、1日は24時間しかありません。
 ところで…。
 相撲界が揺れています。野球賭博疑惑が疑惑で終わらなくなりました。親方までが手を染めていたようですから、事件はかなり深いのでしょう。最悪の場合、名古屋場所も興行できなくなる可能性もあります。
 週刊誌からの受け売りですが、相撲界は暴力団関係の興行師の力を借りなければ地方巡業も成り立たなくなるようです。そのような実状が今回の事件の根底にあるのではないでしょうか。
 思い起こせば、企業も総会屋との付き合いが経営を行うに際して必要悪な時代がありました。しかし、80年代の商法改正によりそれもままなくなり、いろいろな事件が起きながらも表面上は健全な経営を確立しつつあります。相撲界も同じように、紆余曲折しながら健全な業界になってほしいものです。
 それにしても、最近続いている相撲界の不祥事の発端は本場所で暴力団が見物客として来場していたことでした。それが問題になり、暴力団との関係が取り沙汰されたと記憶しています。ある親方が暴力団のために一般の人では手に入りづらい席を用意したのが事件の真相でした。もし、そのようなことさえしていなかったなら、野球賭博についてもこれほど大きな事件にはならなかったのではないでしょうか。
 相撲協会の幹部にしてみますと、「暴力団に席を用意することなどしなかったなら…」と恨み言も言いたくなるでしょう。でも、それは仕方ないんですよね。だって、お相撲さんは「セキトリ」だから。
 じゃ、また。




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