<忖度>

pressココロ上




 2~3週間前のことですが、息子のパソコンが壊れてしまいました。スイッチを入れても画面が真っ黒のままでなにも映らない状態でした。ハードディスクが作動している音はしていましたので、本体ではなく「モニターの故障」のようでした。
 我が家は僕と娘と息子がそれぞれパソコンを持っていますが、この中で息子のパソコンが一番新しく買ったものでした。その一番新しいパソコンが壊れたのですから、納得し難いものがあります。このパソコンを買うとき、僕は一緒について行きました。息子よりは僕のほうがパソコンの知識がありますので同行したのですが、当時としてはグレードの高い機種を買いました。パソコンに詳しくない息子が、深く考えもせず取りあえずは値段が高い機種を選んだほうが「なんとなくいい」ように思った結果の「テレビも見られる24万円のパソコン」でした。父親である僕がそのときに使っていたパソコンは13万円弱で買ったものでしたが…。
 息子が買ったパソコンは、本体とモニターが一体になったパソコンでしたが、当時この一体型は出たばかりでしたので、種類も少なかったように記憶しています。しかし、今回購入するに際してパソコン店めぐりをしたときは、一体型が主流を占めており、当時とは反対に、本体とモニターが分かれている分離型を見つけるほうが困難でした。店員さんに尋ねましたところ、一般家庭では一体型のほうが支持されていることが理由でした。現在では、どこの売り場でも陳列されているパソコンの9割以上が「一体型パソコンになっている」と教えてくれました。
 話は戻りますが、息子はモニターが映らなくなった当初、買いかえるつもりはありませんでした。ネットで探した修理業者に依頼をしたのですが、約2週間待たせたあとに連絡があり、「修理代金12万円の承諾」を問われたそうです。誰が考えても、修理に12万円かけるなら新しく購入するほうを選択するでしょう。
 そこで、僕がパソコンを買いに行くことにしたのですが、息子の要望は次の3点でした。
・テレビも見られること
・画面の大きさが22インチ以上あること
・ゲームができること
 以上の3つでしたが、僕はこのほかに「本体とモニターが分かれていること」を提案しました。モニターの調子が悪くなった息子のパソコンも、分離型であったならモニターを交換するだけで簡単に修理ができたように思ったからです。しかし、先ほど書きましたように、分離型パソコンを探すのは大変でした。
 さて、息子の要望を満たすべく、お店めぐりをしたわけですが、この要望の中で一番難儀をしたのが「ゲームができること」でした。幾つかのお店を回っているうちに、「ゲームができる」には特殊な端子がモニターについている必要があることがわかりました。そして、その端子の有無で価格が数万円高くなることもわかりました。
 最初に息子がパソコンを買ったとき、息子はわけもわからず価格が高い機種を選んだのですが、その選択方法は間違っていなかったことになります。もし、ケチって価格の安いものを選んでいたなら息子はゲームができませんでした。僕は、パソコンの知識について息子よりは持ち合わせていますが、当時も今も、ゲーム関連のことは全くわかりません。
 しかし、「ゲームができるかどうか」という問題は、僕だけでなく店によっては店員さんも熟知していませんでした。
 あるお店に行ったとき。
 僕はパソコンを見ながら近くにいた女性店員さんに尋ねました。
「あのぉ、このパソコンでゲームはできるでしょうか?」
 その店員さんは、当然であるかのように簡単に答えました。
「大丈夫ですよ。USBでつなげていただけたらできますから」
 僕はその時点では、モニターにゲームを接続できる環境を理解していましたので、この答えが間違っていることがわかりました。僕は、再度質問しました。
「あのぉ、ゲームができるにはHDMIという端子が必要らしいんですけど…」
 僕に言われて初めて女性店員さんは自分の答えが誤まりである可能性を悟り、パソコンに詳しそうな男性を連れてきました。結局、その方も確かなことはわからず、さらに上司のような男性を連れて来ました。最終的には、その売り場にはゲームを接続できる機種はありませんでした。因みに、分離型も1台しかありませんでした…。
 それにしても、僕に簡単に「USBがあるから…」と答えた店員さんは、もし僕が疑いもせず、そのまま購入していたならいったいどうするつもりだったのでしょう。ちょっと恐い気もします…。
 結論を言いますと、息子の要望および僕の提案を全て満たすパソコンを、僕は買うことができました。しかも、13万円以下という格安で! CPUやメモリなど性能も申し分ないものです。最初に見に行った大手電気チェーンでは、これらの性能を備えたパソコンですと最低でも18万円と言われた機種を13万円で買うことができたのですから、息子も喜んでくれました。もしかしたら、息子はこの割安の本当のお得感はわからないかもしれませんが、それでも僕へのお礼にチョコボールをお土産に買ってきてくれました。僕の大好物です。
 今回のパソコン購入に際して幾つかのお店を回りましたが、そこで痛感したのは、接客の重要性です。結局、僕が購入を決める際の決め手にしたのは「信頼できる接客」をしてくれたかどうか、でした。パソコンの知識はもちろんのこと、笑顔を絶やさず、こちらの要望を丁寧に聞き、そして対応してくれた店員さんがいたお店で購入しました。
 接客はとても大切です。先に紹介しました「間違った知識」で対応するのは論外ですが、笑顔がない接客も購入意欲が沸き上がってきません。そして、なにより大切なのはお客様の気持ちを察する、想像する能力です。それなくして、お客様が納得、満足する接客はできません。
 お客様に限らず、自分が接している相手の気持ちを察したり想像する能力は接客業だけに求められるわけではありません。営業職でも必要なのは想像できるとしても、ほかの業種たとえば事務職においてもこの能力は大切です。それは仕事を遂行するうえで周りの人とスムーズな人間関係を築いていることが重要な要因となるからです。周りの人たちとうまく付き合えていない中で質の高い仕事などできるはずもありません。
 若い皆さん、相手の気持ちを察する感性を身につけましょう。
 ところで…。
 民主党小沢氏が、自らの政治資金管理団体に関連した事件で検察審査会の決定により強制起訴されることになりました。つまり、検察が起訴しないと判断した事件を一般市民は起訴すべきと判断したことになります。この検察審査会の決定に拘束力が備わったのはつい最近ですが、今回の小沢氏の決定において物議を醸しています。
 司法のプロである検察が下した「裁判で有罪にできるだけの証拠がないから起訴しない」という決断を、一般の素人が覆すことに問題はないのだろうか…。
 新聞では、拘束力が備わった現在の検察審査会のシステムが政治的に利用される懸念を書いています。例えば、このシステムを利用して敵対する政治家を失脚させることも不可能ではありません。
 確かにこれらの問題点は今後議論を重ねる必要がありますが、それ以前の問題として、検察審査会に拘束力を持たせた大きな要因は検察に対する不信感があったからではないでしょうか。検察の感覚と一般人の感覚との距離感、ズレが大きくなったことが原因です。
 素人が起訴の是非の判断をすることに問題がなくもありませんが、それ以上に、その判断を検察だけの手に委ねることにも問題があります。
 今、検察は入口と出口の両面において信頼を失っています。
 入口とは、証拠改ざんやでっちあげ調書を作成するといった起訴する前の段階における信頼失墜です。出口とは、起訴の是非を決断する段階における信頼失墜です。決断の基準が、検察と一般市民とでは大きく離れてしまっています。そのことが、その判断になにかしらの意図や思惑があるように勘ぐられています。週刊誌の見出しではないですが、検察は今、地に落ちている印象を世間に与えてしまってしまいます。
 郵便不正事件で検察官による証拠改ざんが表面化したあと、元上司が逮捕されるなど最高検による究明が続いています。しかし、究明が順調に進んでいるとは言い難く、被告になっている元特捜部長や元副部長などは「とかげの尻尾切り」と言い放ち、全面的に争う姿勢を表しています。
 もちろん、僕は取調室でのやり取りを知る由もありませんが、この最高検と特捜部の対決は「傲慢対傲慢」の言葉のやり取りが行なわれているのではないでしょうか。僕は今、平家物語の一節を思い出します。
「驕れる者は久しからず」。
 先週も書きましたが、この事件の究明は検察がやるのではなく、第三者が行なうべき事件です。また、マスコミはそのことをもっと声高に訴えるべきですが、そうした姿勢が見られないのは、マスコミの限界でしょうか。
 たぶん今の段階では、最高検と元特捜部の両者は国民がどのような気持ちでこの展開を注視しているか、わからないように思います。なにしろ、両者とも相手の気持ちを察する感性など磨く必要がない人生を送ってきたのですから。
 じゃ、また。




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