<ジジ殺し>

pressココロ上




 先週は、僕にとってうれしいことがありました。
 仕事を終え家に着きますと、玄関に封書が届いていました。僕は気が向いたときに企業や団体などが実施している公募に応募することがあります。封書の差出人は2年ほど前に短編小説の公募に応募した団体でした。その団体が公募していたのは恋物語でした。普通の感覚ですと、僕のようなオジさんに属する人間で、しかもオジさんの中でも後半に突入している年齢では、恋物語などを書くのは無謀のように思えます。しかし、昔の純情な甘酸っぱい感覚を思い出したくなり、応募した次第です。
 結果は、残念ながら落選となりましたので、「やはり、オジさんが創作する純情な恋物語は時代遅れなのかなぁ」と落胆していました。けれど、心の中では「結構、感動するんだけどなぁ」とも思っていました。
 先週、届いた手紙には次のように書いてありました。
「あなたの応募作品は入選とはなりませんでしたが、最終選考に残りました。つきましては、ネットにて公開することになりました」
 要約すると、このような内容だったのですが、詰まるところは、僕の応募作品が一応評価されたことを証明することですので、僕が喜んだのもおわかりになると思います。やはり、自分の作品が他人から評価されるのはとてもうれしいものです。
 僕の可愛い大人になった娘の口癖は「私は、褒められて伸びるタイプ」ですが、僕の性格は娘似です。
 たぶん、僕たち親子のような人間は世の中に多いだろうと想像しますが、褒められてうれしくない人はいません。これを裏返すと、褒められた人も褒めてくれた人に好意を抱くことになります。「褒める」は「認める」とも言い替えられますが、自分を「認めてくれる」人に悪感情を抱く人はいないでしょう。こうした性向はほとんどの人に当てはまりますが、この性向を上手に利用して出世の階段を上ったり、社会的ポジションを高める人がいます。
 「ジジ殺し」です。
 世の中には、年長者に「可愛がられる」人がいます。そうした特質が意図したものか否かに関係なく年長者が「面倒をみたくなる」人がいます。このような「ジジ殺し」という才能も社会で成功する一つの要因と言えます。
 先日、経済番組を見ていましたら、懐かしい顔を見かけました。一昔ではなく二昔前にマスコミに頻繁に取り上げられていた社長です。当時、この社長は今でいうベンチャー起業家として名前を轟かせていましたが、それは「後ろ盾になっていた人が財界の重鎮と言われる人だったから」と言われていました。つまり、「ジジ殺しだったから」というわけです。時代の移り変わりを象徴するように、その番組ではその社長自らが「ジジ」の立場となって登場していました。
 最近の僕のコラムの分析を見ていますと、コラムを訪れる際に検索するキーワードとして「板倉」と「夏野」が上位に入っています。これは以前、IT起業家として時代の兆児となりながらも倒産してしまった板倉氏とその部下であった夏野氏を比較したコラムを書いているからです。僕は、この二人を比較することによって「起業する」だけが「成功の道ではない」、企業に勤めていても自分の能力を活かすことができるし、お金持ちにもなれる道がある、と若い人に紹介したかったからです。
 では、この二人を「ジジ殺し」の面で考えてみましょう。
 夏野氏の現在の社会的ポジションは非常に高い位置にあります。夏野氏の本はベストセラーになりますし、大学の教授として、またはIT業界の中心人物として社会から認められています。その飛躍のきっかけとなったのは、やはりNTTへ入社したことです。そして、そのきっかけを作ってくれたのは元上司である松永真理氏です。松永氏は女性ですので、この場合は「ババ殺し」でしょうか。
 松永氏、夏野氏、ともにiモードの産みの親として有名ですが、そもそも松永氏をNTTに紹介したのは、九州地方のとある社長でした。その意味で言いますと、松永氏も「ジジ殺し」と言えるのかもしれません。
 対して板倉氏の現在を見ていますと、板倉氏にとっての「ジジ」はベンチャー起業の研究で有名な大学教授のように見えます。共著で本も出版していますし、講演会などで同席することも多いようです。
 現在の二人の境遇を見るとき、ビジネスの面だけに限るなら夏野氏のほうが成功しているように映ります。そして、その分岐点を「ジジを選んだとき」に求めることもできるかもしれません。大学教授を「ジジ」とするよりは実務をこなしている経済人を「ジジ」としたほうがビジネスマンとしては成功する確率が高いように思います。
 現在は刑事被告人ですが、一時はIT起業家として時代の兆児と言われた堀江氏と現在もIT起業家の成功者として君臨している三木谷氏を「ジジ殺し」の面から考えるのも若いビジネスマンに参考になるかもしれません。
 結論を言ってしまうなら、堀江氏は「ジジ」を持たず、三木谷氏は複数の「ジジ」を持っていました。そして上手に「殺して」いたと言えるでしょう。野球チームを取得する際の堀江氏と三木谷氏の戦いにもその影響があったように思います。やはり、「ジジ殺し」の才能があるほうが勝利を収める可能性が高いのは当然です。なぜなら、決定権を持っている人たちが全員、ジジだったからです。最初から、堀江氏の勝ち目はなかったと言ってもいいでしょう。現在の二人の対照的な境遇は「ジジ選びの差」ともいえるかもしれません。
 元来、「ジジ殺し」の言葉にはマイナスのイメージがあります。つまりは、年長者に「ごまをする」「取り入る」といった意味ですが、僕は決して悪い意味だけではないように思います。
 先に書きました松永氏や夏野氏が成功したのは「ジジ殺し」がきっかけですが、それだけではありません。活躍する場を提供されるだけの能力が備わっていたからです。つまり、ジジの方々は「才能、如いては人を見ぬく目」を持っている証拠でもあります。いくら「ジジ殺し」がうまかろうと、期待に応えられるだけの才能がなければ、仕事をやり遂げることはできませんし、本人も潰れてしまうでしょう。
 年長者に、自分が尊敬する人や好きな人がいることはとても幸せです。運良くそのような年長者に出会ったなら、やはり「親しくなりたい」と願うのは自然な気持ちです。その結果が「ジジ殺し」になろうとも、それはいい意味での「ジジ殺し」のように思います。
 若い皆さん、素敵なジジに出会いましょう。
 ところで…。
 いい意味での「ジジ殺し」になるのは運も必要です。
 僕の知り合い(ジジの部類に入ります)の息子さんは釣りが趣味でした。休みの日はほとんど釣りに出かけていたそうです。そして、出かける場所がだいたい決まっていますので、自ずとそこで出会う人と顔見知りになります。回数が増えるたびに親密さも増してきて当然です。息子さんが親しくなった人の中に、30才くらい年上と思える人がいました。
 趣味の世界でのことですので、仕事の話などはしないのが普通ですが、世間話のついでに仕事の話になり、それがきっかけで大きな契約をものにすることができたそうです。その年長者はある大きな企業の会長さんだったのです。
 人生、なにが幸いするかわかりません。この例も「ジジ殺し」に入りますが、最初から「ジジ殺し」が目的ではありませんでした。とっかかりは単なる釣りが好きな者同士の親近感からでした。ある意味、「ジジ殺し」が目的でなかったからこそ「ジジ殺し」ができたともいえます。
 「ジジ殺し」をするには、その前提として、二人の「ウマが合っている」ことが必要です。「ジジ殺し」の基本は年齢の離れた二人の「気持ちが通じ合う」ことです。これなくしては「ジジ殺し」もあり得ません。
 また、先の例のように、その関係には純粋さも必要です。仮に、計算した「ジジ殺し」であったなら、年長者は「殺される」ことはないでしょう。それを見抜けるのが年長者の年功といえるものです。もし、「計算を見ぬけない」年長者なら、「殺すに値しない」年長者ということになりますから、「計算したジジ殺し」は最終的にはなんの利得も得られない結果を迎えます。
 じゃ、また。




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