<いじめと規制>

pressココロ上




 先週の新聞で気になった投稿がありました。先月、群馬県で小学6年生の女の子が自殺した事件がありましたが、その事件に関連する投稿でした。自殺の原因は学校側とは見解が違うようですが、親御さんは「いじめ」を理由に挙げています。
 今の段階ではどちらの言い分が正しいのか定かではありませんが、女の子がクラスの中で孤立していたのは確かなようです。その状況に対して、投稿者は自分の娘さんが小学校時代に体験した出来事を紹介していました。それは、郊外授業などで「好きな子同士でグループを作る」行動についてでした。今回の事件も、自殺した女の子は給食時間に一人で食べていたそうです。大人ならまだしも、小学生が、周りがグループで食べている中でたった一人で給食を食べるときの気持ちは深く傷ついて当然です。投稿者はその女の子の気持ちを思うと「涙が止まらない」と書いていました。
 たぶん、読者の中にも経験ある人がいると思いますが、学校という狭い社会はとても生きづらい場所です。常に仲間外れにならないように気を配っていなければいけません。これは僕が小学生だった40年くらい前とほぼ変わりません。実に悲しいことですが、それが現実です。子供はときに残酷な面がありますから、自分の気持ちに正直であり過ぎるあまり、他人に対する思いやりや気配りに欠けることがあります。子供のそうした未熟な気質を上手にコントロールしつつ修正していきながら、社会で生きる術を教えるのが学校の役割ではないでしょうか。僕は、そう思います。
 投稿者は娘さんから「好きな子同士で固まっていないとみじめなんだ。自分でなくても誰かがグループに入れないのはつらい」と聞いたあと、担任に話をしたそうです。しかし、担任の返答は投稿者を落胆させるものでした。
「子供たちの自主性に任せようと話し合い、好きな子同士と、子供たちが決めた」
 担任はこのように答え、「好きな子同士でグループを作る」行為を改める対応は取らなかったそうです。担任には、どのグループにも入れず苦しんでいる子の気持ちを考えることができなかったのでしょう。
 僕は、このような弱者の気持ちに鈍感な感覚に対して不快感を持ちます。また、このような感覚を持つ大人が教師をしていることにも不愉快です。「好きな子同士でグループを作る」ことによって、どこにも入れず傷つく子供が出ることを憂慮する感性はないのでしょうか。しかし、投稿者によりますと、PTA関係の親御さんの中にも「担任と同意見の人がいた」ということですから、教師だけの問題ではないのかもしれません。
 現在は格差社会と言われています。その原因を小泉首相時代から進められた(でも、本当は橋本首相時代からです)市場主義や規制緩和に求める意見があります。自由で気ままな市場に経済活動を任せた結果が格差社会というわけです。そして、最近ではその格差社会を是正するという建前で規制を復活させる方向に社会が向かいつつあるようです。例えば、タクシー業界が規制を復活させた例などはその流れの一環です。さらに言うなら、かつては不正の温床とまで言われた談合でさえ正当化するかのような意見がメディアに登場しています。
「ある程度、仲間内で話し合って決めたほうが『みんな』が幸せになる」
 というわけです。現在のように格差社会が顕著になってきますと、そうした意見にも一理あるように感じる人もいるでしょう。しかし、僕は違うと思います。
 市場主義や規制緩和が必要なのは「不公平」をなくすためです。市場主義や規制緩和が行なわれなくとも格差はありました。それは、規制によって「守られる側」と「参加もしくは兆戦を阻まれる側」の格差です。この格差が生じているのですから、市場主義や規制緩和が行われようが行なわれまいが格差は常に存在します。大切なのは機会の公平性が保たれているかどうかです。
 市場主義や規制緩和に反対する人たちは「みんな」が幸せになるには規制があったほうがいい、と主張します。では、僕が仕事としている外食産業で考えてみましょう。
 ある地域で新たな出店を規制したとき、幸せになる「みんな」はどんな人たちでしょう。間違っても、新しく出店しようと考えている人たちは「みんな」には入りません。お店を利用する人たちも同様です。新しいお店ができないということは、選択の幅が広がらないことですからそれだけ「不幸せ」なことです。ですから、幸せになる「みんな」には入りません。
 このように考えていきますと、残っているのはある地域において既に営業している店だけです。つまり、幸せになる「みんな」とは既に飲食業を営んでいる人たちのことを指します。そして、これらの人たちが手にしている利益が、「既に」と書いているように、既得権益です。これでおわかりのように、市場主義と規制緩和を後退させることは既得権益者を優遇することにほかなりません。決して、格差社会を是正することにはつながりません。反対に、既得権益者とそれ以外の人たちの格差が広がるでしょう。
 正確に言うなら、「格差が広がる」とも言えないかもしれません。なぜなら、規制によって同じ土俵に立つことさえができないのですから、その格差が生じることもないからです。この「格差が生じないこと」をいいことに、既得権益者は「規制強化によって格差を是正する」と主張しています。しかし、本来、規制の有無と格差社会は無関係と言ってもいいでしょう。
 僕は、最近の規制を復活させる動きは既得権益者たちが「格差」を隠れ蓑にして既得権益を保守、または復活させようと目論んでいるようにしか見えません。
 談合を正当化する論調も目にするようになりました。しかし、得をするのは、談合に参加している人たちだけに過ぎません。それ以外の人たちには兆戦するチャンスさえ与えられないのが「規制」です。談合を構成するグループに参加している人だけが「みんな」では不公平とみなされるのは当然です。
 もう、お気づきでしょう。市場主義・規制緩和を否定することは「いじめ」と同じ状況を作ることです。好きな者同士でグループを作り、それ以外の人たちを排除する。「仲間内だけが幸せになればいい」という発想こそ「いじめ」の究極の状態です。このような状態で、公平な社会ができるはずがありません。
 市場主義・規制緩和が行なわれることにより、誰でもが参加できるのですから当然、競争が起きます。確かに、競争がないほうが当事者は楽ですが、競争がないことは即ち、その時点で「いじめ」が起きていることを意味します。大人の世界で「いじめ」をなくす努力をしなければ、子供の世界での「いじめ」がなくなるはずがありません。
 ところで…。
 兼ねてより問題となっていました尖閣諸島での衝突事件のビデオ映像がインターネット上に流出しました。当初、中国側への配慮から映像を非公開にしていましたが、その配慮もなんの意味もないことになりました。映像を見た限りでは、中国漁船が故意にぶつかってきたように感じますが、それでも中国の対応は変わらないようです。しかし、中国政府のこの反応も想定内のことですから、日本政府としてもさして驚くこともないはずです。ですが、日中双方の政府にとって、落とし所がますます見つけにくくなっていくのは、好ましい展開ではありません。
 映像流出についてニュース番組では、「危機管理について」や映像が「公開された意図」などいろいろな解説がなされていました。その中で、ある解説者が「民意」という言葉をなんども使っていました。また、少し前のことですが、小沢氏の検察審査会についての解説のときも、解説者は「民意」という言葉を頻繁に口にしていたように思います。
 解説者の方々は「民意」を尊重すべきものとして使っていたのですが、僕には違和感がありました。解説者は、「民意が○○だから」と解説するのではなく、自分の考える意見を述べるべきです。まるで、「民意」に責任を押しつけているように感じました。
 そもそも、「民意」が常に正しいとは限りません。そのことは過去の歴史が教えていますから、「民意ほど当てにならないものはない」と言えるほどです。それによく考えてみますと、過去の歴史に遡るまでもなく、つい最近でも証明されています。なにしろ、民主党を政権に選んだのは「民意」なのですから…。
 じゃ、また。




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