<ミュンヘンへの道>

pressココロ上




 現在、世界女子バレーボール大会が行なわれていますが、大会を放映しているTBSでは、大々的に宣伝を繰り広げています。ですから、いろいろな番組にバレーに関わり合いのある人たちが出演しています。そうした中で、僕はとても懐かしい人を見ました。それは、男子バレーの元日本代表選手であり監督でもあった大古誠司氏です。
 たぶん、大古氏の名前を聞いてもピンとくる人は少ないと思いますが、僕にとってはとても印象に残っている人です。それは、バレーボール選手としてはもちろんですが、その仕事人生の歩みについても深く心に刻まれています。
 では、まず僕がバレーボールと出会った経緯から。
 僕がバレーボールを始めたのは、高校に入ってからです。中学時代はバスケットボール部に入っており、さらにその前の小学校時代は毎日草野球をやっていました。ですから、高校に入るまではバレーボールとは無縁でした。
 そんな僕でしたが、ちょうど高校に入学した頃に「ミュンヘンへの道」というバレーボールを題材にしたアニメ番組(正確にはアニメと実写の混合)を見ていました。内容は、と言いますと、ミュンヘンオリンピックで金メダルを目指す男子バレーの選手たちの苦悩と努力する姿を追った番組でした。当時の僕は、「巨人の星」とか「あしたのジョー」などに影響を受けたスポーツ大好き少年でしたので、この番組はそんな僕を夢中にさせるのに充分なスポーツ根性物語でした。僕が高校に入ってバレー部に入ることに影響を与えたのは間違いにように思います。
 僕が中学時代にバスケットボール部を選んだのは、特にバスケットボールに思い入れがあったわけはなく、ある目的のためで、それさえ達せられるなら種目はなんでもよかったのです。ですから、その目的が達せられるなら高校でバレー部に入るのも特に問題はありませんでした。
 僕が、バレー部に入ったときの新入部員の自己紹介で話した入部理由は次のようなものでした。
「身長を高くしたいので入部しました」
 先輩たちの大爆笑を誘いましたが、それはともかく、身長が高くなるスポーツならなんでもよかったのです。
 結局、日本の男子バレーチームはミュンヘンオリンピックで、目標通り金メダルを獲得したのですが、その代表チームでエースを務めていたのが、大古氏でした。このときの男子バレーチームはまさしく史上最強チームと言ってもよかったと思います。
 監督の松平康隆氏は、単にバレーボールの技術や戦略、戦術に長けていただけではなく、技術以外のバレーボールという種目を世の中に広める戦術、戦略にも優れた才能がありました。今で言うマーケティング能力です。先ほど紹介しました「ミュンヘンへの道」というテレビ番組の放映もその一つです。そうしたマーケティングの成功がなければ、金メダルを獲得することもできなかったでしょう。
 もちろん、選手の実力も必要です。今でこそ、190cmを越える選手も珍しくありませんが、当時は190cmを越えた選手を集めるどころか探すのが大変でした。そのうえ、身体能力も備わっていなければいけません。単に背が高いだけでは、「木偶の坊」に過ぎず世界で戦うことはできません。先ほどの「ミュンヘンの道」というアニメは、その身体能力を高める練習の中での各選手の苦悩と努力を毎回取り上げていたのです。あまりの練習の苦しさに、身長190cm越え、しかも30才を越えた大男が大泣きする場面に僕は釘づけになりました。
 このときのチームメンバーをレギュラーとして確定していた順に紹介しますと、エースに先ほどの大古(以下敬称略)と横田忠義、センターに森田淳悟、セッターに世界の猫田、そしてそのほかのポジションや控えとして木村憲治・佐藤哲夫・嶋岡健治・中村祐造・西本哲雄・深尾吉英・南将之らがそのときどきの状況により出場していました。…こうやって名前を列挙しているだけで、僕は興奮してきます。
 この当時、バレーボール界は日本リーグというリーグ戦が行なわれていましたが、その優勝の常連に日本鋼管というチームがありました。大古選手、森田選手、嶋田選手はその日本鋼管の選手でした。代表チームに3人も選ばれるほど日本鋼管というチームは強かったわけですが、そのことがのちに大古氏の人生に影響を与えます。
 以前このコラムで、僕は「映像の記憶力が高い」と自慢したことがありますが、何年経とうと頭に残っている映像というものがあります。その一つに、ある試合での大古選手の姿があります。
 スパイクを打つために飛び上がり左腕を肘から軽く曲げて頭の上に上げ、右腕はこれからボールを打つべく肘を大きく頭の後ろまで引き上げ、上体はまるで矢を放つ弓のように後方に反らし、下半身も膝を大きくしなるように後ろに曲げ、そして空中で留まっているかのような姿勢で落ちてくるボールをジッと見つめている大古選手の姿です。
 このとき、大古選手がスパイクを打ちこもうとしていた相手チームには森田選手と嶋田選手がいました。そうです。大古選手は移籍していたのでした。大古選手は新しいチームを率い、エースとして監督として若手を引っ張りながら戦っていたのでした。孤軍奮闘という言葉が相応しい戦いぶりでした。なにしろ、バレー部がない企業に新たにバレー部を作る段階から関わったチームでした。当然、選手などいませんから、自分で全国各地を回って有望な選手を探すことから始めて作り上げたチームです。サントリーです。大古選手はこの全く白紙のチームを一から作り上げて下部のリーグから最高峰の日本リーグまで上り詰めてきたのでした。
 そのようなチームですから、戦力になるのはごく限られていました。ですから、スパイクはほとんどと言っていいくら大古選手ひとりが打っていました。前衛にいようが後衛にいようが、レフトにいようがセンターにいようがライトにいようが関係なく大古選手がひとりでスパイクを打っていました。極端に言うならば、大古選手ひとり対エリート集団の日本鋼管チームといった図式でした。
 これほど不利な試合にも関わらず大古選手はスパイクを決めていたのですが、実際、この時期の大古選手は最も脂が乗っていた時期だったように思います。もちろん、日本鋼管チームにしてみますと、スパイクを打つのは大古選手ただひとりと分かっていますので、徹底的にマークしてブロックをしてきます。ときには3枚ブロックのときもありました。それでも大古選手はスパイクを決めていました。態勢が充分なときは力強いスパイクでブロックを跳ね飛ばし、不利な態勢のときはブロックアウトを狙い、もしくはリバウンドを取り打ちなおすというテクニックまで備えていました。
 試合も後半に入り、相変わらず大古選手はスパイクを決めていました。日本鋼管の選手たちは大古選手ひとりに翻弄されていると言ってもよかったでしょう。大古選手にトスが上がるたびに日本鋼管の選手たちが緊張しているのが伝わってきました。「今度はどんなスパイクを打ってくるのか。コースを狙って強力に打ちこむのか、それともブロックアウトを狙って巧みな打ち方をするのか」
 そんな試合展開が続いていた中で、日本鋼管の選手たちが大古選手のスパイクをなんとしてもブロックで抑えるか、もしくはレシーブをしなければならない場面がありました。それまでなんども決められていましたので「今度こそ!」という強い気持ちが日本鋼管の選手たちに溢れていたのがわかりました。
 ブロック陣は大古選手の前にピッタリと張りつき、それ以外の選手たちはそれぞれのポジションでどんな強力なスパイクであろうともレシーブする気構えで身構えていました。会場の満員の観衆も、そしてテレビを見ている僕も、気持ちは同じです。これだけ周到に防御を整えられた状況で、いったい大古選手はどんなスパイクを打つのか…。
 先ほど僕が書きました「今でも目に焼きついている映像」とはこのときの場面です。日本鋼管の選手、会場の観衆、そして僕が見つめる中、空中で身体を弓のように反らして落ちてくるボールを見つめている大古選手の姿です。
 大古選手は、みんなが見つめる中、落ちてくるボールに指先が届くかどうかというギリギリのタイミングで、指先の力を抜きボールにそっと触れ、ブロック陣の手の上を僅か数cm越えるように軽く押し出しました。日本鋼管の選手たちが「どんなに強いボールでもレシーブするぞ!」と身構えている中、誰もいないコート中央にフッとボールを落としたのです。そうです。フェイントです。
 ボールがコートに落ちたその瞬間、会場が静まり返りました。日本鋼管の選手も、観衆も、僕も、誰一人声を発しなかったのです。ただ、全員が心の中で叫んでいたはずです。
「あっ」。
 日本鋼管の選手たちは誰も動けませんでした。一歩も動けませんでした。それをあざ笑うかのように大古選手の指先から放れたボールはゆっくりとコートの上に落ちました。
 僕はこのときの映像がくっきりと頭の中に残っているのですが、実は、勝敗に関しては記憶がありません。ただ、たった一人でエリート集団に立ち向かっていた大古選手にとても感動した思い出があるだけです。久しぶりにテレビで大古氏を見て昔の映像が蘇った次第です。
 大古氏はサントリーから誘いを受け日本鋼管を退社したわけですが、あのまま日本鋼管に留まっていても将来は見えなかったかもしれません。エリート集団の中で、同年代の実力者がいては高卒の自分の居場所が見えなかったのでしょう。森田氏も嶋田氏もともに大学時代の素晴らしい実績を掲げて日本鋼管入りしたエリートです。それにくらべ、高校時代は無名であった大古氏とでは考え方も異なっていても当然でしょう。たぶん、サントリーにしてみてもそれを見越しての誘いだったと思います。
 大古氏は引退後、日本代表チームのコーチそして監督まで務めていますが、そうした役職もサントリーという新興チームを立派に作り上げた手腕を見こまれてのことだと思います。若い皆さん、大古氏の仕事人生の軌跡を参考にして頑張ってください。
 ところで…。
 本文中、「190cmを越えた大男が練習の苦しさから大泣きした」と書きましたが、その人は南将之選手です。日本チームがミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得したとき、その原動力となったのは猫田、大古、横田、森田などレギュラーの選手たちであるのは間違いありません。しかし、このときの代表チームのキモは中村祐造選手と南将之選手でした。この二人がいなかったならいくら大古や横田、森田といった素晴らしい選手がいたとしても金メダルを獲得することはできなかったでしょう。
 僕は、「最も理想的な組織は?」と問われたなら、ミュンヘンオリンピックでのバレーボールの日本代表チームと答えます。それほど、組織としてのバランスに優れていました。そのキモであり要だったのが中村、南の両ベテラン選手でした。どんなに優れた選手が集まっていようとも、ベテラン選手が必ず必要になる場面があります。
 中村選手はキャプテンとしてその後ろ姿で中心選手たちを束ねていたように思います。また、南選手はその中村選手をしっかりとサポートしていました。実は、金メダルを獲得するに当たっての最も重要な試合は決勝戦ではなくその前の準決勝でした。この試合は負けていてもおかしくはないほど窮地に追い込まれていました。そのときにチームを救ったのが南選手でした。
 準決勝の対戦相手は東ドイツでしたが、なんと、先に2セットを連取され3セット目もリードを許したまま後半に入っていたのです。その不利な状況を打開すべく松平監督は南選手を投入しました。この選手交代がなければ日本は準決勝で敗退していたでしょう。
 途中出場した南選手はコートに入った瞬間、身体中からエネルギーが湧き出ているように見えました。たぶん、控えのベンチで準備しているときから身体中がウズウズしていたのでしょう。躍動感とはこのときの南選手のためにあるような言葉でした。
 *お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、今週のコラムはいつもより長くなっています。本来ですと、そろそろ終わっていなければいけないのですが、書いているうちに興奮が収まりきらなくなってきました。ですから、突っ走ります。
 試合で2セットを連取され、しかも3セット目もリードされている場面では、レギュラーの選手といえども自分の力を出しきることができないものです。「出しきることができない」というよりも、なんとなく「歯車が合わずにズルズル3セット目まできてしまった」印象でした。その歯車をガチッと合わせる役目をしたのが南選手です。
 ややもすると折れそうになっている大古や横田や森田などレギュラー陣の気持ちを持ちこたえさせるように、支えるように、とにかく声を上げ、声をかけ、みんなを鼓舞していました。すみません。僕は今、こう書きながら涙が出てきてしまいました。
 世界一のセッターと言われていた猫田にしても同様でした。いくら数々の修羅場を潜り抜けてきた猫田にしても、いくらいいトスを上げようが、攻撃陣との歯車が合わなければ猫田の才能を活かすことなどできません。
 そうした全体的に悪い流れを押しとどめ、日本チームにいい流れを引き込むのが「自分の使命」と南選手は理解していました。それを実践するために、南選手は動き回っていました。必死に動き回っていました。僕は忘れもしません。南選手のヘッドスライディングを。
 そのとき南選手は後衛のセンターでした。相手チームのスパイクがブロックにワンタッチし大きくうしろに跳ねていきました。誰が見ても間に合うはずがない、届くはずがないボールの行方を追い、そしてその落ちた方向へヘッドスライディングしたのです。その姿は白々しいパフォーマンスではなく、真摯で誠実で諦めない意志を示すスライディングでした。ドイツの観客は南選手が出場したときから、南選手の頑張る姿を見ていました。その姿が観客の心を掴んでいたのでしょう。南選手がスライディングをしたあと、多くの人が南選手に対して拍手を送ったのです。もし、単に上辺だけのスライディングであったなら、拍手など起きなかったでしょう。南選手の誠実さが見ている人に伝わっていたからこそ起きた拍手でした。
 南選手の必死の頑張りが徐々に日本チームに勢いを取り戻させました。歯車が合い出しました。3セット目を大逆転で勝利すると、そのあとの4セット5セットも大接戦の末、勝利し日本は決勝戦に駒を進めることができたのです。
 因みに、南選手の息子さんも日本代表に選ばれて活躍していました。
 話は現在に戻りますが、13日(土)に行なわれた日本対ブラジル戦は、ちょうどミュンヘンでの日本チームと同じようなことをブラジルチームが成し遂げていました。1、2セットと負けたあと、3セット目から連続で勝って勝利を収めた瞬間のブラジルチームの喜びようを見ていましたら、ミュンヘンオリンピックを思い出してしまいました。
 スポーツ選手が一生懸命、必死に頑張っている姿って見ている人に感動を与えます。あの当時、僕、いつも思ってました。身長があと30cm高かったらなぁ…って。
 じゃ、また。
追伸(平成28年5月6日):まとめ記事を作成しました⇒ ミュンヘンへの道まとめ




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