<ふとしたこと>

pressココロ上




 先月のことですが、夜のニュース番組を見ていましたら、大学駅伝で有名なある選手を取り上げていました。その選手は高校時代からいろいろな大会で優勝するなど、走る才能に恵まれていたようでした。その実績から駅伝で有名な大学に進学し、そして1年生からその実力を発揮し、毎年恒例のお正月の大学駅伝でも苦しさで有名な坂道がある区間の記録を更新するなどそれまでの実績にたがわぬ活躍をしていたようです。
 その彼が突然、「走れなくなった」のがその番組で取り上げていた理由でした。番組では当人へのインタビューもありましたが、彼が言うには「どこに行っても『頑張って』と言われることに苦痛を感じるようになった」ことが理由とのことでした。その当惑の深さは当人しかわかりませんが、僕には「周囲から投げかけられる激励に嫌悪感を感じ始めた」ように映りました。さらに言うなら、自分を見失っているようにも感じました。
 以前、本コーナーで円谷選手の本を紹介したことがあります。円谷選手は東京オリンピックで銅メダルを獲得したマラソン選手ですが、その円谷選手は「周りからのプレッシャーに耐えきれず」自ら命を絶ちました。「おとうさま、おかあさま、」ではじまる遺書は円谷選手の誠実な人柄が滲み出ており世間の涙を誘いました。真面目過ぎる性格が円谷選手の人生を短たらしめたように思います。
 円谷選手と冒頭に紹介した駅伝選手の彼とでは苦痛を感じる種類が違うかもしれません。しかし、周りから受ける期待感という点では同じです。もしかすると、円谷選手より彼のほうが数倍辛いかもしれません。
 それは、円谷選手の時代とは比べ物にならないほどのマスコミの発達があるからです。マスコミの発達は世間や社会からの注目度を否が応でも高めます。その度合いは円谷選手の時代の比ではありません。そのような状況で、彼が周囲の声に対して必要以上に圧迫感を感じても不思議ではありません。彼を取り巻くそのような環境が、彼から走る意欲を削いだのではないでしょうか。番組の中では、まだ完全復活とまではいってないようでしたが、彼が早く「走る意欲と自分」を取り戻し復活することを願っています。
 そんな感想を抱きながら新聞を読んでいましたら、思わず「そうか」と口走ってしまったコラムに出遭いました。コラムの執筆者は池澤夏樹氏です。ちょうどチリの鉱山事故での救助が世界的に注目を集めていた時期でしたので、鉱山に関連した内容でした。そのコラムの中で僕が「そうか」と思ったのは鉱山で働く人たちの環境について書いている個所でした。コラムの題名は「職業の誇り」です。
 鉱山の中での仕事は危険が伴ううえに、暗く暑く、このような高温多湿な環境ではもちろん汗が止まらないそうです。ですので、鉱山で働く人たちの勤務時間は「地上に戻って風呂に入って着替えるまで」と決まっているそうでした。これは、お風呂に入っている時間も勤務時間に含まれることを意味します。そこには、劣悪な労働環境の中で働く人たちに対する畏怖の気持ちが込められている、とのことでした。僕が「そうか」と得心したのはそのことです。
 僕は、社会人になって数年経った頃、父と強い口調で言い争いをしたことがあります。今にして思いますと、「強い口調」で言い争うほどの問題ではなかったのですが、20代の意気盛んな頃でしたので、つい感情的になってしまうのでした。
 言い争いのきっかけはほんの些細なことで、国鉄で働いている人たちの勤務時間の扱いについてでした。国鉄とは今のJRです。どういった経緯からそのような話の展開になったのかも忘れてしまいましたが、父は「風呂に入る時間も勤務時間に含まれるのは当然だ」と言いました。僕がそれに反論して言い争いになったわけです。因みに、父は国鉄ではありませんが元公務員です。そうしたことも影響しているのかもしれませんが、僕には、父の考えが理解できませんでした。
 先週のコラムで書きましたように、僕は基本的にスポ根大好き人間ですので、漫画やドラマなどにあるような、「人知れず努力をして技術を向上させる」という考え方が基本になっています。そんな僕ですので、試合の勝敗は普段の練習から始まっていると考えています。もちろん、試合で真の実力を発揮するための充分なウォーミングアップや試合後のクールダウンなども同様です。
 しかし、あくまで試合の勝敗は試合時間の中でしか決まりません。いくら普段の練習を真面目に必死にやろうが、また試合前のウォーミングアップを入念に準備しようが、試合の中で実力が発揮されなければ意味をなしません。試合の中で力が及ばなければ負けることもあります。あくまで勝敗の結果は試合内容だけで決まるべきものです。もし、普段の練習や試合前のウォーミングアップなどが試合の勝敗に反映されるとなると、その競技は別物になってしまいます。例えば、野球の試合を1回から9回の戦いだけでなく、それ以前の練習やウォーミングアップの様子や態度なども試合結果に反映させるとしたらなら、もう野球ではなくなってしまいます。試合と練習やウォーミングアップなどは区別されなければいけません。
 僕は、「仕事」は「試合」だと思っています。ですから、働いている時間とそれ以外の時間は区別しなければならない、と考えています。僕が、風呂に入る時間を勤務時間に含めることに反発したのはまさにここに理由があります。
 先ほど、父の考えに「そうか」と得心した、と書きましたが、それには昔の国鉄時代の労働環境を考えなければいけません。僕のような中高年でも昔の国鉄の労働環境を詳しく知っているわけではありませんので、ここから先は推測の話になることをご了承ください。
 たぶん、昔の国鉄の貨車は動力が石炭でした。ですから、国鉄の職員は石炭をスコップで炉にくべることも重要な仕事だったはずです。この労働はまさしく鉱山での労働と似ています。高温の場所で汗をかきながら肉体を酷使するのですから並大抵の仕事量、質ではありません。ですから、国鉄の職員も鉱山の労働者と同様に、入浴時間が勤務時間に含まれていても不思議ではありません。もしかしたら、畏怖の念もあったかもしれません。
 僕は池澤氏のコラムを読み、30年前の父の考えの背景が見えたような気がしました。たぶん、元公務員である父の頭の中にはこのような経緯が刻まれていたのではないでしょうか。その考えの良し悪しは別にして、このような考え方が基本にある父にしてみますと、時代が変わったにしても「風呂入浴時間」が勤務時間に含まれるのは当然だったのです。当時、僕は父が考える根拠がわかりませんでしたが、その根拠を30年後に知ることができたことに感慨深い思いがあります。人間は、ふとしたことで昔のことを思い出しますから不思議です。
 冒頭で紹介しました駅伝の彼も、小さい頃からなんら迷うこともなく、ただひたすら純粋に走ることに熱中して人生を過ごしてきたのだと思います。それこそ順風満帆に競技人生を過ごしてきたときに、「ふとしたこと」で走ること、激励されること、期待されることに疑問を感じたのではないでしょうか。そんな彼が、自分を取り戻すにはやはり「ふとしたこと」がきっかけになるような気がしています。誰にも「ふとしたこと」ってありますよねぇ。
 「フと」したことで「ハッ」と気づき、そして「ホッ」とする。…なんちゃって。
 ところで…。
 国土交通省の大臣が前原氏から馬渕氏に変わり、八ッ場ダムの対応も変わってしまいました。前原氏は工事中止を前提に政策を進めていましたが、馬渕氏はそれを白紙に戻すと言明しています。このような対応の変遷を見ていますと、「行政とは?」または「政治とは?」と考えざるを得ません。大臣が変わることによって、政策が簡単に変わってしまうのであれば、政策に直接関係する国民は翻弄されるばかりです。
 たぶん、八ッ場ダムの住民の間ではダム建設の賛成派と反対派で対立があったでしょう。そうした状況の中で、安易な政策変更は徒に住民の亀裂を激しくするだけです。対立した住民同士が暮らす社会が心休まる場所であるはずがありません。本来、ダムは洪水を防ぐために、または住民に水を供給するために水を溜めておくためのものです。しかし、今の状況では、徒に時間ばかりが過ぎその間に住民同士の対立が激しくなるばかりです。これではまるで、ダムは「時間」と「諍い」を溜めるためにあるようなものです。
 じゃ、また。




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