<感性>

pressココロ上




 日本航空が再建に向けて人員削減を行なっています。当初は希望退職者を募る方法でしたが、計画通りの人数を達成することができず、整理解雇することにしました。常識的に考えて、日本航空ほどの高待遇の企業はそうあるはずがありませんから、退職に応じる人が少ないのはある程度予想できたことです。経営陣のこの方針に対して、乗務員組合の1つが撤回を求めてストを行なうことを表明しています。この組合の対応について、僕の感想は、と言えば、「昔となにも変わっていない」と落胆した気持ちです。
 日本航空の倒産が決まった当初、世間一般もマスコミも日本航空に対して概して同情的でした。新聞などでは、長年勤めた機長や客室乗務員を取り上げ、情緒的な記事を書いていました。しかし、「なぜ倒産したか?」という観点で日本航空を捉えるなら、決して同情されるだけでは済まない事情があります。
 確かに、準国営ともいえる日本航空でしたから、その利権に群がる政治家や産業人から様々な難題を持ちかけられた事実もあったでしょう。ですから、日本航空だけに責任を押しつけるのも正しい対処ではないように思います。しかし、経営陣、従業員ともに全く責任がなかったかといえばそうではないはずです。そこには、親方日の丸という無責任な意識が蔓延していたのは想像に難くありません。労働組合が8つもあったのはその証拠です。
 国内企業の90%以上が中小企業ですが、そうした中小企業に比べますと日本航空の待遇は給料なども含めて、優遇されている感は免れません。もし、その待遇が市場競争の中で揉まれた結果で、しかもきちんと利益を出している中から出された結果であったなら、世間から批判される理由はありません。しかし、利益が出ていない状況で、そのうえ赤字の分を税金から補填を受けながらの高待遇であったなら世間から非難されて当然です。今回の組合のストライキは世間から支持されることはないでしょう。
 日航の組合に限らず、現在の組合は一般社会とは感性がずれているように思います。そのことが労働組合の組織率の低さと無縁ではないでしょう。僕には、今の労組は労働者の代表というよりは、全労働者の一部に過ぎないエリート労働者のためだけにあるように思えて仕方ありません。その証拠に組合員でない派遣社員などの非正社員の待遇については無関心です。さらに言うなら、非正社員の待遇を低くすることによって組合員の待遇を高くしているようにさえ映ります。これで、どうして労働組合と言えるでしょう。
 整理解雇に対してストを表明した組合は一般社会の人たちとは感性がずれているように思いますが、そのずれた感性が日本航空破綻の一因ではなかったでしょうか。
 先週は、その組合絡みで気になるニュースがありました。日本教職員組合(以下:日教組)がプリンスホテルに損害賠償を求めた裁判の判決が報道されていました。簡単に説明しますと、日教組がプリンスホテルで大会を予定していましたが、直前になって一方的に会場提供を拒否された事件です。
 日教組は定期的に大会を開いていますが、その大会が開かれるたびにその会場および周辺には必ずと言っていいほど右翼の街宣車が妨害にやってきます。こうしたときの模様はニュースなどでも放映されますのでご覧になった方も多いでしょう。街宣車での妨害行動は周辺の住民にとっても迷惑ですので、毎回警察が出動する騒動になっています。
 プリンスホテルが直前になって拒否したのは、まさにこの騒動を不安視したからです。一番の理由は、ちょうどこの時期が受験シーズンにあたり、受験生が多数宿泊するからでした。大げさに言うなら、受験生にとっては一生を決めるかもしれない入試です。合格を目指して一生懸命頑張ってきた受験生が宿泊施設の騒動で実力を発揮できないのではあまりにかわいそうです。僕は、プリンスホテルの対応は正しい判断だったと思っています。
 しかし、今回の判決は、日教組側の勝利でした。日教組の主張を認め、ホテル側に損害賠償を命じました。僕はこの判決に不満です。
 大会を開催することによる騒動は、毎回のことですから日教組も事前に予想できていたことです。それを、わかっていながら多くの受験生が宿泊するホテルを会場に選んだことに納得できません。受験シーズン真っ只中であることを考えたなら、本来ならあり得ない選択です。もし、違う会場で日教組が同じような対応を取られたなら、会場側に賠償を求めるのは理解できます。しかし、今回のケースでは日教組の主張は普通の感覚からかけ離れているように思います。そもそも、教職員の集まりなのですから、受験生の状況については充分に知っていたはずです。受験生がどのような思いで、受験日を迎えているかも想像がついたはずです。それを思うなら、ホテル側に拒否される前に、自ら辞退するのが正しい選択だったように思います。
 僕は、日教組の対応も、また裁判の判決も一般社会の感覚とは異なっているように感じますが、その原因は「感性の違い」のように思います。
 広告の世界で、有名なコピーに「白いクラウン」という名文があります。これはコピーライターの草分けと言われている梶祐輔氏が書いたコピーですが、たったの6文字で「クラウンを社用から一般用にする」概念を表しています。この6文字だけで、その意図を読む人の心の中にジワジワと浸透させていきます。
 知人と話をしていたとき、なにかのきっかけでこの「白いクラウン」というコピーの話になりました。僕は、トヨタの思いがこの6文字に込められていることを話したのですが、知人には伝わらなかったようでした。しかし、これと反対の経験を僕はしたことがあります。別の知人ですが、その知人はクラシック音楽に造詣が深い人でした。あるときなにかのきっかけで有名な楽曲(題名さえも思い出せません)について僕にしりきにその奥深さを説明しました。しかし、残念なことに僕にはさっぱりその素晴らしさが感じられませんでした。こうした感じ方の違いが生じるのは感性が各個人で違うからにほかなりません。また、感性は時代とともにも変化するようにも思います。そして、そのときどきにおける最大公約感性がその時代の感性となります。
 裁判員制度が始まって1年あまり経ちましたが、新聞などでもその検証が行なわれています。特に、ここにきて死刑判決について一般人である裁判員には「荷が重過ぎる」という論調が言われています。それゆえに裁判員制度の是非も問われていますが、僕は裁判員制度には意義があると思っています。理由は、まさに各人により感性が違うからです。裁判官という「人を裁くプロ」と「市井で暮らす一般人」ではその感性に違いがあって当然です。そして、その違いがあるからこそ「人を裁くという神聖な行為」に一般人の感性も反映させるべきだと考えます。もし、裁判員制度がもっと前からあったなら、足利事件も志布志事件も起きなかったのではないでしょうか。少なくとも、検察官の作文を調書にするようなことはできなかったでしょう。
 ところで…。
 いささか古い話になりますが、前回の事業仕分けでスーパー堤防なるものの存在が明らかになりました。国交省の説明では、400年に一度の水害に備えての堤防ということでしたが、一般の人にはピンとこない年数です。また、それほど大規模な災害に備えるのですから、事業自体も大掛かりな工事にならざるを得ず、事業が開始してから20年過ぎている現段階でもまだ進捗率が1割にも満たないそうです。この工事は国民の税金を注ぎ込んで行なわれる公共工事ですが、その工事がこのような中途半端な状況になっていることに、お役人さんたちはなにも違和感を感じないのでしょうか。
 先日、ラジオを聞いていましたら、元国交省の官僚の方が出演していました。番組の中で、堤防の話が出てきたのですが、元官僚の方はその意義について話していました。
 例えば、50年に1度の水害に備えて堤防を作ったとしても、現実問題としてその堤防が役に立たず水害が起きることがあるそうです。そのときのいい訳は「たまたま100年に1度の水害が起きた」からというものです。この論理で言いますと、100年に1度の水害に備えて堤防を作ったにしても、「たまたま200年に1度の水害が起きた」なら100年に1度の水害に備えて作った堤防もなんの意味もなさないことになってしまいます。これでは切りがありません。
 この元官僚の方は言っていました。つまるところ、
「人間は『自然をコントロールできない』ことを前提にして自然と付き合わなければならない」。
 株の世界でも「誰も将来の株価はわからない」などと言われていますが、人間の限界がそこらあたりにあるのではないでしょうか。大切なのは、どんなことに対しても謙虚な気持ちを持ちつづけることのように思います。
 国交省のお役人さんたちは本気でスーパー堤防を完成させようと考えていたのでしょうか。もし、本当にそうなら、僕には、お役人さんたちの感性は、一般人の大人としてまだ完成されていないように思います。
 じゃ、また。




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