<挑戦者>

pressココロ上




 僕はネットの立ち上がりサイトをヤフーにしていますので、自ずとヤフーのニューストピックを見ることになります。以前、本コーナーで紹介したことがありますが、このトピックの編集をしている方は元大手新聞社に勤めていた方のようです。多くのマスコミが発する情報の中からあの数行のトピックに載せる見出しを選ぶのですから、その知識の豊富さと世の中の動向を感じ取るセンスがなければできない仕事です。
 今週、本コーナーで紹介しています「2011年新聞・テレビ消滅」(著:佐々木俊尚)は、マスコミ界におけるネットの脅威を解説している本ですが、僕はニュースに接する際の自分の行動を考えるとき、ネットが果たしている役割の大きさに驚かされます。僕はニュースを広く浅く知りたいとき、間違いなくネットを利用しているからです。佐々木氏が指摘していることはどれもが核心をついているように思え、とても勉強になりました。マスコミに興味のある方は是非、一読を…。
 そんなヤフーのニューストピックで、先週僕の興味を惹いたのがUSENの社長である宇野康秀氏に関するトピックでした。
 宇野氏については7月にこのコラムで紹介しました。僕は、宇野氏がマスコミにあまり好意的に取り上げられていない状況を憂慮して、ラーメン店時代の有線放送設置物語を交えながら、宇野氏に肩入れした内容のコラムを書いたのでした。僕は、宇野氏の行動力や決断力に尊敬の念を持ってコラムを書きましたが、今回の記事を読む限り、僕がコラムを書いていた時には既に経営者として追いこまれていたようです。
 ネットの記事によりますと、宇野氏は新しく手がけた事業がどれも業績が思わしくなく資金繰りに困っていたそうです。結局、資金の提供者であるファンドの意向により宇野氏の退任が求められたようです。記事では、資金繰り悪化の原因が宇野氏の「手を広げすぎた」経営にあるように解説していました。そして、記事の最後に「時代の寵児と呼ばれた起業家がまたひとり消えた」と締めくくっていました。
 僕は、業績が悪化し退任を迫られた起業家や経営者に対して批判的に報道するマスコミの姿勢が好きではありません。溺れている犬を叩くような態度に思えます。マスコミや批評家、評論家が、したり顔でわかったようなことをあとづけして総括する姿は気持ちのいいものではありません。このような自らは行動していない人は、本当は批判する資格さえない、と思っています。
 百歩譲って、赤字という結果に対する責任を追及することは必要だとしても、法的に問題を起こしていないなら、その論評には謙虚さや優しさがあってしかるべきです。
 例え、結果が失敗だったとしても、僕は宇野氏を「えらい」と思います。普通の人は1千万円を借りるだけでもビビるのが普通で、それをなん億円、なん十億円、ときにはそれ以上の金額を借り入れたりまたは出資を仰いだりしながら企業を運営してきたのですから、並大抵の度胸、度量でなければできません。それを考えるなら、例え最終的には失敗したとしてもそれまでの姿勢や行動力は賞賛されるべきものです。
 宇野氏の記事を読み、そんなことを考えていましたら、今から20年以上前の起業家を思い出しました。
 今から20年以上前も、一般の人にとって社長という肩書きには強い憧れがありました。今のような「ベンチャー」とか「起業家」などというかっこいい名称はありませんでしたので、社長というネーミングには人間の優越感をくすぐる心地よい響きがありました。その当時、僕は深夜に放映されていた社長を紹介する番組を見ていました。いわゆる「社長シリーズ」です。
 いろいろな社長が登場しましたが、一番記憶に残っている社長は佐々木ベジ氏です。佐々木氏は当時20代後半だったと思いますが、この「ベジ」という名前はペンネームでもニックネームでもなく本名です。僕が佐々木氏を最も記憶に留めているのは名前が印象深いからだけではありません。会社を立ち上げた当時の営業方法がとてもユニークだったからです。
 佐々木氏は秋葉原で電気店を営んでいましたが、開業した当初は商品を仕入れるお金がなかったそうです。そこで、注文を受けてから商品を仕入れる方法を実践していました。
 具体的に話しますと、当時の秋葉原ですから街を歩いている人たちはほとんど電気製品を購入する目的で訪れる人ばかりでした。テレビを例に挙げますと、佐々木氏は部下に街中を歩いているお客さんに「テレビを安く売りますよ」と声をかけさせ、事務所まで連れて来させます。もちろん、店舗などありませんから事務所です。事務所に着いてからメーカーや製品名を聞き、お客さんが「安い」と納得する価格で売る約束をします。それから、お客さんにわからないように事務所の裏手から街に出てお客さんの求めているテレビを仕入れて来るのです。秋葉原ですから、仕入れる先はいくらでもあります。しかし、まだ、これだけでは終わりません。
 仕入れてきたテレビを部下に事前に約束した価格より高く提示させます。すると当然、お客さんとしては「約束が違う」と文句のひとつも言いたくなります。それどころか、購入をキャンセルすることさえ考えます。佐々木氏はそういうお客さんの表情を見て、お客さんが反応する前に部下に対して怒り出すのです。それもすごい剣幕で!お客さんの気持ちを代弁するかのように「怒鳴りまくる」のです。そのあまりの剣幕に部下は涙を浮かべることさえあります。
 すると、それまで不服そうにしていたお客さんが、部下をかわいそうに思い、こう言います。
「そこまでやらなくても…、その値段で買いますよ」
 佐々木氏はこのようなやり方で開業当初の売上げを作っていったのでした。
 しかし、佐々木氏が飛躍したのはこのようなゲリラ的な販売方法が要因ではありません。所詮は、ゲリラ的販売方法ですから限界があります。佐々木氏が大きな飛躍を遂げたのは、イチかバチかの賭けに勝ったからだそうです。
 いわゆる「バッタ商品」というのがあります。倒産した会社の商品を二束三文で買い入れた商品のことですが、それを専門に扱う業者もいます。
 ある日、佐々木氏の元に、バッタ業者さんから話が舞い込みました。「クーラーを大量に買わないか」という話です。佐々木氏はその価格に考え込みました。ひとつひとつの商品価格で考えると各段に安いのですが、トータルではかなりの金額です。当時の佐々木氏にしますと身の丈以上の仕入れ額になります。バッタ業者は海千山千の業者ばかりですから、「どこまで信用してよいか」定かではありません。しかし、佐々木氏は賭けに出ました。そして、その賭けに勝ったのです。商品は実際に納品され、そしてインチキ品でもなかったのでした。このときの莫大な利益がきっかけで佐々木氏は大きく会社の規模を伸ばすことができたのでした。
 その後、佐々木氏についてマスコミで報じられることもなかったのですが、それから1~2年後くらいでしょうか、佐々木氏の名前を久しぶりに新聞で見ました。佐々木氏が東証2部の機械メーカーの社長に就任した記事でした。たぶん、佐々木氏にしてみますと、上場企業の社長に就任するのが夢だったのではないでしょうか。
 その後、佐々木氏のことも社長に就任したメーカーのことも意識することはなかったのですが、数年後になにげなく株式欄を見ましたら、その企業の名を見つけることができませんでした。当時は、まだインターネットなどもない時代ですので、佐々木氏について調べようもありませんでした。今回、このコラムで書く際にネットで検索しますと、幾つか出てきました。まだ、現役の経営者のようですが、記事の中には批判的どころか、悪人のように書いているサイトもありました。いったい、事実はどうなのでしょう。
 宇野氏の記事を読んでいて、たまたま佐々木氏のことを思い出し、読者のみなさんに紹介しました。みなさんはどのような感想をお持ちになったでしょうか。「経営は結果だ」と喝破したのは経営評論家の三鬼陽之助氏です。確かに、結果が伴わない経営は批判されるべきです。しかし、そうした厳しい態度を取るのはステークホルダーの方々に限られるべきで、外野から見たり聞いたりしている僕たち野次馬はもう少し暖かい目で見守るのが正しい接し方ではないでしょうか。少なくとも、野次馬は挑戦者に対して敬意を払いましょう。
 ところで…。
 斎藤和義さんという歌手をご存知の方は多いでしょう。おっと、今の時代は「歌手」などと言わずに「アーティスト」と言うのかもしれませんね。でも、まぁ、僕はオジさんですので「歌手」ということで…。
 僕が斎藤さんを知ったのは、斎藤さんの歌がコマーシャルに使われてブレイクしてマスコミで取り上げられてからです。歌のメロディもテレビで聴いていましたし、トーク番組で見かけた斎藤さんのイメージと歌がマッチして気に入りました。
 僕などの年代ですと、斎藤さんの歌は昔のフォークソングに通じる雰囲気がして感じ良く聴くことができます。そういうわけで、僕は斎藤さんの歌をユーチューブのお気に入りに登録してたまに聴いていました。しかし、何回か聴くうちに飽きてしまい、最近では全く聴くこともありませんでした。つまり、「気に入った」といっても「大好き」といったレベルではなく、「好き」というくらいの「お気に入り」だったことになります。僕の妻への愛情に例えるなら、結婚する前の熱愛のレベルではなく、結婚して3~4年過ぎた頃の少し冷めた愛情のレベルといったところでしょうか。
 ところが…。
 斎藤さんのヒット曲に「ずっと好きだった」という歌があるのですが、先週、その歌の詞の内容についてタレントの方が語っている様子をテレビで見ました。この歌は「学校の同窓会で再会した男女の話」だそうです。
 高校の頃は言えなかったけど、実は「ずっと好きだった」。
 そうか。そういう歌だったんだ。そういうことってありますよねぇ。思い出すなぁ、あの甘酸っぱい青春時代。トーク番組で聞いたんですけど、斎藤さんは歌手デビューのために上京してきたとき、ボロッちぃアパートに住むことになったそうです。車に荷物を詰めこみ、当時の彼女と一緒に引越しをしたらしいんですけど、彼女はアパートのそのあまりのボロッチさに落胆し別れて行ったそうです。青春ってせつないですねぇ。
 僕は歌詞の内容を知ってから、この歌の素晴らしさを再確認しました。それ以来、最近はずっと毎日聴いています。この歌を知った当初は「結婚後3~4年後の妻への愛情度」でしたが、歌詞の意味を知ってからは「結婚前の愛情度」くらいに好きになったことになります。人間の好き嫌いの感情は、ほんの些細なきっかけで大きく変わることってありますよねぇ。
 もし、妻との関係を歌にするなら、題名はこうですね。
「一時期好きだった」
 じゃ、また。




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