<人の不幸は蜜の味>

pressココロ上




 「閉店する」ことを店頭に表示してから、お客様や問屋さんなど店に関わっていた人たちの反応は様々です。この反応を見ていますと、まさにその人の本性が見て取れます。
 「閉店」の表示を見て、それまで店の前を通りすぎるだけだった人が「満足そうな」笑顔で1個だけ買いに来て言いました。
「お店、閉めちゃうんですねぇ。そろそろヤバイんじゃないかって話して…」
 僕は答えました。
「最近はコンビニでも売ってますし、結構ウマイですからねぇ」
 僕の答えに、その男性はさらに満足度を増したようで、飛びっきりの笑顔で帰って行きました。
 またある人は「トンカツを売れば儲かったのに」とか、また違う人は「弁当屋にすればよかったのに」などなど。閉店する店に対していろいろな意見を言いたがる人がいます。人は教えたがる動物で、教えることに快感を覚える性向があります。新しく開店した店や反対に閉店する店などに意見を言う人がいますが、その心の底にあるのは優越感以外のなにものでもありません。また、自分では行動を起こせない羨望の裏返しであることもままあります。自分の仕事に本気で取り組んでいる人は間違っても他人の仕事に容易に口を挟まないものです。専門外の人が専門家にアドバイスをするのは恥ずかしい行為です。草野球の選手がプロ野球選手にアドバイスするのが不見識であるのと同じです。
 今、紹介しました例は閉店する側の人間としては気分のよいものではありませんが、それでも実害があるわけではありません。単に、気分的なものですので時間が経てば気持ちを切り替えることもできます。
 それに対して、実害を及ぼす反応があります。実は今、それですごく困っています。それは新興宗教の勧誘です。
 その方は1年に数回買いに来てくださる女性のお客様でした。購入以外のときでも店の前を通るときは笑みを浮かべながら軽く挨拶を交わす程度の間柄でした。もちろん、名前も住所も知りません。ところが、「閉店の知らせ」を貼り出したところ、僕に対する接し方が積極的になってきました。
 店頭の「閉店表示」に気がつくと店先にやってきました。
「閉店するんですか? このあとのお仕事など決まってるんですか?」
 と、まるで心から心配しているふうな面持ちで尋ねてきました。僕が、「まだ、なにも決まってないですよ」と答えると同情の表情を示しながら「大変ですよね」と言って帰って行きました。それから、1時間ほど過ぎた頃です。女性は再びやってきました。ある案内のパンフレット類とそれを勧める手紙を封筒に入れて。
 つまり、封筒にはある宗教の案内が入っていたわけですが、女性曰く「お札を買って毎日願っていると、それまでのいろいろな辛いことや困難が解決するんですよ」。
 それ以来、この女性は僕と会話ができそうなタイミングを見計らって勧誘に来るわけですが、僕としては閉口しています。考えようによっては、僕はあと少しで店をやめるわけですから、強気に出て高圧的に断る対処の仕方もあります。これからも続けるのであれば、商売に影響を与える不安がありますのでできない対処ですが、あと少しでやめるのですから論理的には可能な対処です。しかし、「あと少し」というそういうときほど慎重に行動しなければいけません。これは、今までの僕の経験から会得した処世術ですが、災難やトラブルは最後の最後に待っていることが多いものです。全ての業務が終わり不動産屋さんに鍵を返してお店と完全に縁が切れるまで油断をしてはいけないのです。ですから、面倒ですが、勧誘を感情的になることなくやんわりと断りつづけています。そうですね。相撲で言えば、「いなす」といった感じでしょうか。どんなに攻められても「いなしていなしていなしつづける」心積もりです。
 今回の僕に対する勧誘でもそうですが、宗教の勧誘には一定の法則があるように感じます。それは、「不幸な人を狙え」です。この法則を実践している勧誘を僕はこれまでに幾度も見聞きしています。今回の僕のように、「店を廃業して次の働き口も決まってない」状態は「不幸の最たる状態」です。だからこそ、この女性は僕に狙いを定めたのでしょう。
 僕のような仕事絡みの不幸のほかに病気や人間関係の悩みなど、生きていると様々な困難や辛い状況に陥ることがあります。人間とは、基本的に弱い生き物ですから、そうした落ち込んだ状態のときに手を差し伸べられると、ついそれにすがりつきたくなります。そうした人間の弱さにつけこんだ宗教の勧誘は決して褒められた方法ではありません。
 「閉店のお知らせ」の貼り紙を店頭に貼っていたところ、60才くらいの男性が話しかけてきました。僕が初めて見る顔でしたので、たぶん、たまたま通りがかった男性なのでしょう。
「閉店するんだ。そうかぁ。大変だね」
 僕はいつものように明るく笑顔で答えました。
「ここの場所、絶対売れない場所なんですよね」
 僕の答えに少し戸惑いの表情を見せましたが、思いなおしたように言いました。
「まぁ、落ち込まずにこれからも頑張ってよ」
 僕の肩を軽く叩いて去って行きました。お店を閉めることは「落ち込む」ことと決まっているようです。僕に宗教の勧誘に来た女性も同じ発想で僕に近づいてきたのでしょう。確かに、お店を閉店することは喜ばしいことではありませんが、「落ち込む」ほどの不幸でもありません。ですから、神様に助けてもらわなければいけないほどの不幸でもありません。単に、たまたま「失敗した」だけに過ぎません。失敗など誰にでも起こることです。そのたびに「落ち込んで」いては身体がもちません。
 僕の「ラーメン店体験談」を読みますと、店を閉めるときの僕の心模様は「かなり落ち込んでいる」ように書いてあります。このときは、一生懸命お金を貯めて命を賭けるくらいの心がけでお店を開業し、必死に働いて運営していた思いがありましたから、自然と感傷的な気分になっていたのかもしれません。ですが、数年後冷静になって考えてみますと、お店を閉めることは感傷的になるほど落ち込む出来事でもないように思うようになりました。世の中には、もっと辛い体験をしている人がたくさんいます。お店を閉店することなど「辛いことの範疇に入らない」と考えている人も多いと思います。人はときに自分の人生をドラマチックに語りたがります。自分で言うのもなんですが、体験談での記述は、もしかすると落ち込んでいる自分に酔っていたのかもしれません。つまり、ドラマチックな文章にしたかったのです。
 チェーン店などを見ているとわかるとおり、閉店はビジネスシーンにおいては日常茶飯事の出来事です。確かに、チェーン店などと違い個人商店はスクラップアンドビルドを簡単にできるわけではありません。ビルドができずスクラップだけで終わってしまうのが個人商店の現実です。それでも、閉店がビジネスの中で日常茶飯事であるのは同じはずです。悲嘆に暮れるほど落ち込む出来事では全くありません。
 ところが、「落ち込んでいない僕」を不愉快に思う人がいます。不思議なことですが、います。お店を閉めるんだから、「ちゃんと落ち込めよな」というわけです。特に、閉店に追い込まれる僕に「意見を言いたがる」人にそのような人が多いように感じます。この人たちにとっては僕が落ち込んでいることが「蜜の味」を感じることができる条件です。だから、僕、意地でも落ち込まないんだぁ。
 ところで…。
 不幸な僕にいろいろな話を持ちかけてくる人種の1つにリクルーターがいます。通常のリクルーターは、これから就職試験を受ける学生にとっては適切なアドバイスを受けられる意義のある存在です。ですが、僕のような中高年のおじさんに近寄ってくるリクルーターにはあまりよい人はいません。
 具体的に言いますと、マルチ商法の関係者です。もちろん、正面切ってマルチ商法の販売員とは言いません。しかし、話の内容を聞いていきますと、商品を売るよりも人脈を広げる話が主題になります。基本的に、マルチ商法は「いかにして自分の子供(下の層)を増やすか」が重要な要素ですから、最終的には「人生の生き方」など商品よりも人生観について語るようになります。なにやら、新興宗教に似ていなくもありません。
 今の時代、若い人でも簡単に就職先が決まらないのですから、中高年のおじさんが簡単に仕事が見つけられるはずがありません。そこを突いてのマルチ販売員の勧誘です。
 それにしても、新興宗教といい、マルチ販売といい、「閉店」の文字を標的にして怪しげな人種が僕に近づいてきます。世の中って、「人の不幸が蜜に見える人」が思ったよりも多いんですねぇ。皆さんも、気をつけてください。
 じゃ、また。




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