<ノブレス・オブリージュ>

pressココロ上




 実は、今週のこの題名は何年か前に使ったことがありますが、あえて今週も使いたいと思います。
 僕が学生時代、新宿に三愛というファッションを中心に扱っていた会社がありました。最近は新宿にも行っていませんので今もあるかどうかはわかりませんが、創業は銀座だったように記憶しています。女性の水着に人気があった会社でした。
 この会社はリコーという会社の創業者である市村清氏のグループ企業ですが、そこに田中道信氏という人がいました。田中氏は市村氏の弟子のような存在でしたが、業績が悪化していたリコーを立て直し、「販売の鬼」の異名をとった方でした。その田中氏が三愛に転じて社長に就任していました。
 この三愛もやはり業績が悪くなったとき田中氏は店舗の課長を集め研修を行いました。田中氏は集まった課長の前でこう言ったのです。
「皆さんは、販売という現場で責任を負う企業にとって最も頼りにしている人材の方々です。そのような皆さんに私は期待をしていますが、最近心配なことがあります。それは、皆さんの心に最近なくなりつつあるものがあることです。そのなくなりつつあるものとは…」
 こう言うや田中氏はおもむろに土下座をして、続けました。
「どうか、お客様。当社の商品をお買い求めください」
 田中氏は、会社全般的に漂っている緊張感に欠けた空気に危機感を感じていました。社員の心の中から、販売に対する気概が失われつつあることを憂いていたのでした。それほど真剣に取り組まなくとも「そこそこ売上げがたつ」現状に甘えている社員に奮起を促したいがゆえの行動でした。社員たちのこのような感覚は、いわゆる大企業病といわれるものです。田中氏のこの行動が、ぬるま湯体質に浸かって鈍感になっていた課長たちに刺激を与えたのは間違いありません。
 この刺激を与える役職に課長を選んだのにも理由があります。部長ではなく課長を選んだのは現場を最も把握しているからです。そして、係長や主任ではなく、ましてや平社員ではなく課長を選んだのは現場の責任者だからです。役職が下の者に責任を押しつける企業は健全な組織ではありません。役職には役職に見合った責任の取り方があって当然です。いえ、当然であるべきです。
 みずほ銀行がシステムトラブルを起こし、ATMが使用不能になる事態が起きました。その事態を謝罪する記者会見に社長が臨みましたが、その始まる前の出来事が印象的でした。
 記者が集まっている会見場にやってきた幹部を従えた社長が椅子に座って会見を始めようとしたとき、広報部の社員が社長のうしろに近づき小声で囁きました。
「立ち上がってから会見を始めてください」
 社長は一瞬怪訝な表情をしましたが、すぐに意図を理解したようで立ち上がり、最初に謝罪の言葉を口にし、深く頭を垂れてから着席しました。もし、広報部の社員から指摘されなかったなら座ったまま謝罪行為をしていたかもしれません。このような光景は、社長がことの重大さを理解していなかった可能性を示しています。「ことの重大さ」とは記者会見の果たす役割です。
 みずほ銀行は以前にもシステムトラブルでATMが稼動しなくなる失態を犯したことがあります。ご記憶の方も多いでしょうが、国会でも取り上げられた事件でした。そのときに議員の質問に対する応答姿勢が物議をかもしました。姿勢に傲慢さが感じられたからです。見方を変えるなら、議員に諂う態度をしないことを評価することもできますが、やはりミスを反省するという姿勢を見せることがとても必要でした。
 今回の謝罪会見では広報部社員の取り計らいで過ちを回避することができましたが、危うく会見が逆効果になるところでした。せっかく社長が出てきたのですから、その謝罪効果を最大にしなければ意味がありません。
 みずほ銀行は社長が謝罪に出てきたことにより謝罪効果を大きくしましたが、反対に社長が会見に出てこないことで謝罪効果が表面に出てこない企業があります。東京電力です。
 リスク管理の専門家によりますと、なにかしらの障害が起きたとき、組織のトップは安易に前面に出てきてはいけないそうです。トップが直接対応してしまうと、すぐに反応しなければいけない状態に追い込まれ、的確な正しい判断ができなくなるからです。確かに、トップへの伝達に時間がかかるほうが時間稼ぎができ、いろんな方策を練ることができます。
 専門家のこのような考えを聞きますと、確かに一理はありますが、今回の原子力発電所の事故においては、すでにその段階を越えているように思います。1号機から4号機まで爆発という事態にまでなっており、周辺住民に避難勧告ま出ている状態でトップを守るもなにもないのではないでしょうか。会見に副社長が出て説明している場面は見たことがありますが、まだ一度も社長を会見で見たことがありません。僕の推測では、社長は出るタイミングを逸してしまってどこで出るべきか迷っているように思います。しかし、このまま出る機会を探しているとますます出るタイミングを逸して、批判の嵐が大きくなるような気がします。ここまできましたら、できるだけ早く会見に出たほうが影響が少ないのではないでしょうか。
 その原子力発電所事故で、「修理に携わっていた作業員が3名被曝した」というニュースがありました。このような事故がありますと、僕はどうしても1999年に起きた東海村JCO 臨界事故を思い出してしまいます。この事故では、死を覚悟しての修理作業をした作業員の方がいましたが、その方について書かれた本を読みかわいそうでなりませんでした。
 今回の事故で、僕がとても憤りを感じるのは、被曝した作業員の方の身分です。全員が下請け企業から派遣されていた方々でした。このような危険極まりない作業を下請け企業の従業員に押しつける東京電力の姿勢がとても不愉快です。このような危険な状態になればなるほど親会社である東京電力の社員が直接作業をするのが本来のあり方ではないでしょうか。ノブレス・オブリージュ。社会的身分に見合った責任を果たす精神を失った東京電力には原子力発電所を運営する資格はないように思います。
 ところで…。
 震災が起きてからテレビではCMに異変が起きています。皆さんも、お気づきでしょうが、ACという公共広告ばかりが流れています。気になって調べてみましたところ、ACジャパンという組織は「広告のもつ強力な伝達力や説得機能を生かし、社会と公共の福祉に貢献することを目的」とした社団法人でした。その意味で言いますと、批判されるべきAC広告ではないと思いますが、抗議の電話が数多く寄せられているそうです。
 今回の大量のCMにおいてもテレビ局との金銭授受はないそうですが、それにも関わらず批判するのは的外れのように思います。ACジャパンでは、あまりの批判の多さに驚き、広告の最後に流れる「AC(エーシー)」という音声を削除したCMをわざわざ製作したそうで、最近の広告では確かに音声は消えていました。
 けれども、批判されたからと言って、放送界に携わる組織が「音声を消す」対応したのはなんとも不思議な気がしました。放送界に携わっているのですから、ここは毅然と「音声がわずらわしい」などという批判は無視してもよかったのではないでしょうか。
 僕としては、そんな批判に過剰反応して「音声を消す」という発想しかできなかったACジャパンに驚いて声も出ません。
 じゃ、また。




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