東日本大震災が起きたあと、民間放送ではいっせいにCMが自粛され、ほぼ全てのCMが公共広告機構、いわゆるACのCMになりました。毎日毎日、同じCMばかりを見せられ辟易した人も多かったようです。その中のひとつに女優の仁科亜季子さんと娘さんの仁美さんが登場するCMがありました。亜季子さんは乳がんを克服した経験がありますので、その経験を考慮に入れたうえでの人選であり、婦人科系病気に対する啓発・検診を促進する内容でした。その亜季子さんがテレビで語っていました。
亜季子さんの闘病中にはいろいろな方がお見舞いにいらしたそうですが、そのときに必ずと言っていいほどお見舞いに来たお客様が口にした言葉があったそうです。
「頑張ってね」。
たぶん、この言葉を使ったことがない人はそうはいないでしょう。それほど日常生活の中でしょっちゅうとは言いませんが、悲しんでいる人や困っている人に対して使う言葉です。僕も友人や知人などにこの言葉をかけたことは幾度もあります。その「頑張って」が亜季子さんを苛立たせたそうです。もちろん亜季子さんも、お見舞いに来た皆さんがそれほど深い意味でこの言葉を口にしているのではないことは承知していました。しかしそれでもなお、この言葉を言われて「キレタ」ことがあったそうです。
理由は、「こんなに頑張っているのに、なんでもっと頑張ってと言われなくちゃいけないの」と感じたからです。つまり、自分の「頑張り」が評価されていないように感じたからです。
これと似たような話を数週間前にもこのコラムで紹介したような記憶があります。そのときは「震災の被害を被ってない人が被害を被っている人に『一緒に頑張ろう』というのに抵抗感がある」という被災者の意見を紹介しました。つまり、被害に直接遭っている当人と第三者では「一緒」にはなれない、というわけです。
「僕たちと同じように不幸になってよ。そうしたら一緒に頑張るから」
という被災者の呟きは僕の心に訴えるものがありました。
「頑張って」や「一緒に頑張ろう」といった、一見相手を思いやっているように思える応援メッセージも受け取る側の心理状態では意図と違う効果を与えることもあります。本来は、「頑張って」という言葉は「当人の努力を認めていない」意味で使っているのではありません。また、「一緒に頑張ろう」という言葉を発するときも「被災者の本当の辛さ悲しさを全く分かっていない」わけではありません。単に、そのときの気持ちを言い表すのに適切な言葉が見つからなかったからに過ぎません。そういうとき、人は普段使い慣れている言葉を無意識に使うものです。
実は、このようなコミュニケーションの難しさは今回の東日本大震災で初めて指摘されたことではありません。今から16年前に起きた阪神淡路大震災のときも言われていました。安易な「励ましの言葉は逆効果になる」と。このことと関係があるかは確信がありませんが、この数年後あたりから書店のビジネスコーナーで「行動経済学」などとついた「心理学と経済を関連づけて考える」本が目に付くようになった感じがします。
それはともかく、「むやみやたらな励ましの言葉は相手に逆効果になる」ことが指摘されました。そうした指摘と無縁ではないと思いますが、震災後の自粛ムードが蔓延していた社会で、自分の就いている職業を再開するときに社会からの評価を意識する言葉を頻繁に聞くようになった感じがしました。
「自分には○○しかない」。
例えば、プロ野球界では震災を考慮して開幕を遅らせました。サッカーもJリーグを中断しました。フィギュアスケート大会は開催地が日本からロシアに変更になりました。僕はおじさんですので音楽の世界について詳しくありませんが、たぶんいろいろなアーティストのライブが延期になったりもしたのではないでしょうか。つまり、震災に遭遇した人たちの気持ちに寄り添うなら、スポーツや音楽などに現を抜かしている場合ではない、と社会的コンセサスが出来上がっていたように思います。
しかし、震災後1ヶ月も過ぎた頃からでしょうか。こうした雰囲気と反対の流れが少しずつ言われるようになりました。「自粛ばかりをしていると、経済が萎縮して日本の景気に悪影響を及ぼす」というのが大まかな論調でしょうか。とにかく、それまでの自粛ムードから一転して「もっと経済活動、具体的に言うならお金を使おう」といった声が大きくなったように思います。それをきっかけに徐々に自粛ムードが解け、そしてゴールデンウィークは例年通り各方面への高速道路は長い渋滞ができていました。
そうした社会の動きに合わせるかのようにスポーツや音楽などのイベントも再開されるようになりましたが、その始まりにみんながみんな口にした言葉がありました。
「僕たちには○○しかなかった」。
この「○○」には野球選手であれば「野球」が入りますし、サッカー選手であれば「サッカー」が入ります。つまりは「自分のできることを精一杯やることが震災で被害に遭った人たちを勇気づけることになる」という意味です。もちろん、音楽関係者であれば「音楽」が入ります。
この言葉も、一見すると理にかなっていますが、あくまでこの言葉の裏には「被災者たちを勇気づける」という意味合いが含まれています。言い方を変えるなら、「私たちが活動を再開することが被災者のためになる」という意図につながります。僕はそこに違和感を感じます。
なぜ、自分の仕事を再開するのに「被災者のために」などという大言めいた理由をつけるのでしょう。普通の会社員が震災後に仕事をするときにわざわざ「被災者のために」などとは言いません。
この疑問の核心は「一般大衆というお客さまたちを相手にしている職業である」ことです。お客さまたちに支持されて初めて再開できる仕事であることです。そして、「支持される」ためには大義名分が必要です。それが「被災者のために」という言葉となって表われているのでしょう。
けれど、最近ではいささか行き過ぎのように感じます。震災直後にACばかりのCMになったのと同様に、なんでもかんでも「被災者のために」を使っているように感じてしまいます。あまりに頻繁に使いすぎると、励ましの言葉と同じように逆効果になってしまいます。
僕の経験では「同情は長続きをしません」。そろそろ、「東北の被災者たちのために」などと言わずに、純粋に「自分がやりたいから」という理由で活動を再開する人が出てきてにいいのではないでしょうか。
ところで…。
自分の仕事を再開するのにわざわざ「被災者のために」と枕詞をつける人たちに共通していることがあります。それは「自分の好きなこと望んでいることを仕事にしている」ことです。世の中には自分の好きなことを職業にしている人は稀です。ほとんどの人が自分の意に沿わない仕事に生活のために従事しているのが現実です。
そんな世の中で「努力をする」という才能も含めていろいろな才能に恵まれ「自分の望む仕事」でお金を稼げるのですからこれほど理想的な人生はありません。こうした羨ましい人生を送っている人たちが、「被災者のために」と枕詞をつけるのは平凡な才能しか持ち合わせていない人たちへの「思いやり」がなせる業かもしれません。
じゃ、また。