<重さ>

pressココロ上




 先週、僕の一番のニュースは山口県光市母子殺人事件の「死刑確定」のニュースでした。このコラムをずっと読んでくださっている方ならおわかりでしょうが、僕はこの事件を幾度か取り上げています。始まりは、本村さんの涙ながらの言葉に感動してからでした。
「僕はあかの他人のために涙を流さない」
 今週、この事件をコラムで取り上げるに際して過去のコラムを振返ってみました。取り上げていた記憶はありますが、今回が久しぶりなような気がしたからです。調べてみますと、なんと1年に1回という定期的ともいえる間隔で取り上げていました。これは意識したのではなく偶然ですが、1年に1回取り上げたい気持ちになるなにかが「あった」のか「起きた」のか定かではありませんが、1年に1回のペースで書いていました。
 それはともかく、本村さんは最後まで立派な方でした。
「死刑判決が下されたことに大変満足していますが、喜びの感情は一切ありません」
 引き締められた神妙な面持ちから発せられたこの言葉が13年間の苦悩を物語っているように感じました。本来なら「満足」と「喜び」という言葉はどちらも人間の嬉しさを表す言葉です。しかし、「喜び」はなく「満足」だけしか心に沸き起こらないのですから、本村さんがどれほど複雑な気持ちでいるかがわかります。
 実は、過去のコラムを調べたのは「頻度」を見るためだけではありませんでした。本当はこの事件に対して、僕が感じた「ある気持ち」を書いたかどうかを調べるのが目的でした。その「ある気持ち」とは、「なぜ君は絶望と闘えたのか」(門田隆将著)を読んだときに沸き起こった気持ちです。
 この本を読み、僕は本村さんが事件から月日が経つにつれて気持ちが変化していっている印象を持ちました。誤解されることを承知でさらに言うなら、「本村さんは犯人を許している」感覚さえ持つようになりました。
 同じように「批判されること」を覚悟しつつ、犯人の「気持ちの移り変わり」を推測もしました。先ほどの本を読みますと、途中の一時期犯人が遺族である本村さんの怒りを買うような態度を取っています。僕はそのときに思いました。あのふてぶてしい態度は「わざと」だ、と。
 今回、犯人は死刑が確定したわけですが、裁判の途中経過では「死刑にならない流れ」ができそうな時期がありました。そうした流れを変えるために犯人は裁判官が抱く心象を悪くするために遺族の感情を逆なでするような態度をとったように感じたのです。きっと、犯人は死刑を望んでいたのです。
 先に、僕は「本村さんの心の変化」について書きましたが、本村さんも僕と同じような感覚を持ったように想像します。これは僕の推測でしかありませんが、本村さんの記者会見での言葉を聞いていて、そんな感覚にとらわれました。そうでなければ、「喜びの感情は一切ありません」とは言わないような気がします。たぶん、事件直後であったなら、間違いなく「喜び」もあったでしょう。
 ここで、疑問を持った読者もいるでしょう。では、なぜ、控訴したのか。
 僕は「控訴」は犯人自身ではなく、犯人を取り巻く大人たちの意向のような気がします。これだけ社会が注目する事件でしたから、それを利用しようとする思想の識者たちがいて当然です。まだ世の中についてなにも知らない20代の犯人がそうした意見に抗うだけの知識など持ち合わせいなくて当たり前です。僕は、犯人が利用されたように思えてなりません。
 ご存知の方も多いでしょうが、先進国で死刑制度があるのは日本や米国などほんのわずかです。世界の流れは死刑制度の廃止です。理由は簡単で、死刑が「国家による殺人」に過ぎないからです。僕は、この意見に賛同です。
 ですが、死刑確定ニュースが流れたとき、一緒にいた僕と同年代の人たちは口々に言っていました。
「あれだけのことをやったんだから、死刑で当然だよ」
 僕も感情論では同じですが、冷静な意見で言うなら、やはり死刑には反対です。以前も書いたと思いますが、「殺人がいけないこと」なら「国家が人を殺すこと」も同じはずです。死刑も殺人と同じだと僕は思います。
 僕の意見はともかくとして、死刑制度については感情的に考えるのではなく、ましてやワイドショー的な感覚で捉えるのでもなく、心の底から真剣に向き合って考えることが必要です。間違っても、表層的にものごとを見るのではなく、深く深く考える姿勢が重要です。この判決が、深く考えるきっかけになってほしいと思います。命の重さは誰しも平等のはずです。
 今回、この判決が注目を集めたことで図らずも本村さんのプライベートが表面化しました。本村さんが再婚していました。僕は新聞を読んで初めて知り、「驚いた」というのが正直な気持ちです。僕と同じ気持ちになった人は多いようで、記者会見の翌日からネット上では多くのサイトで「本村さん再婚」を取り上げていました。
 僕も含めてですが、世間というのは無責任に「理想の愛」を求めます。自分のことは棚に上げて、ドラマに出てきそうな純愛に期待します。僕が「驚き」、そして多くのネット上で報じられたのは、本村さんに対して無意識に求めていた理想像と異なる展開だったからだと思います。少なくとも、僕の「驚き」はそれから発生しています。
 でも、いったい誰が本村さんの展開をそれ以上追及する資格があるでしょう。誰にもありません。ただ、僕は事件で亡くなった奥様やお子様への愛の重さについてはどうしても考えてしまいます。新しい奥様を迎えたということは「亡くなられた奥様とお子様への愛の重さに変化があった」ことが想像されてしまいます。もし、「亡くなられた奥様とお子様への愛の重さに変化がない」としたら、それは新しい奥様に対する愛の重さが少ないことになってしまいます。
 ここまで書いて、やはりこれ以上詮索するのは止めることにしました。どう考えても、「自分のことは棚に上げて」ですので、詮索する資格が自分にはありません。本村さんは、マスコミの質問に「新しい奥様も命日には一緒に墓参りをする」と答えています。それでいいではありませんか。それにしても、世間という怪物からいろいろなことを言われるのを覚悟で結婚なさった新しい奥様は偉い方です。お二人が幸せな結婚生活を送ることを願わずにはいられません。
 くり返しになりますが、僕が本村さんについて書くようになったのは本村さんの言葉に感動したことがきっかけでした。
「僕は、あかの他人のために涙は流さない」
 でも、刑が確定し、本村さんも再婚した今になって思いますと、本村さんもこの言葉とは違う気持ちになっているように想像します。きっと、今の心境は「あかの他人のためにも涙を流すことはある」です。
 そうでなければ、死刑判決の確定に「喜びを感じていた」でしょうし、新しい奥様の優しさを受け入れることもなかったでしょう。間違いなく新しい奥様は結婚前、「あかの他人」である本村さんに対して涙を流していたはずです。
 「あかの他人かどうか」で、命や愛に重さの軽重があるはずがありません。やっぱり、「あかの他人のために涙を流す」人間になれるように生きるのが人間の努めではないでしょうか。そんな気持ちになった先週でした。
 ところで…。
 先日のことですが、図書館に行った帰りに駐輪場に戻りますと、犬の散歩をしていた40代後半とおぼしき女性が立っていました。駐輪場には自転車がきれいに並んでいましたが、その間に犬が紛れ込んだらしく、犬を引き戻すために女性も駐輪している自転車の列の中に入り込みました。犬の引き綱がどこかに引っかかったようで、女性は屈みこむように頭を下げお尻を突き出す姿勢になりました。そのときです。
 女性のお尻が当たった自転車が倒れ、また次の自転車が倒れ…、将棋倒しのように7~8台が順繰りに倒れて行きました。ちょうど、僕の数台前で将棋倒しは収まったのですが、女性は僕と視線が合うと「すみません」と謝りました。
 そのような対応をされますと、僕としましても「知らんぷり」もできません。「大変そうですので、お手伝いをしましょう」と言い、僕は自転車を起こし始めました。3台目を起こしたときになにげなく女性を見ますと、なんと!女性は自転車を起こすことはせず、ただ僕を見ているだけではありませんか。結局、女性は僕が起こしているのを眺めていただけで、僕が起こし終わると、「どうもありがとうございました」とお礼を言って去って行きました。…悔しい。
 皆さん、「あかの他人」に優しくするときは、人を選びましょう。
 じゃ、また。




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