<最近学生マナー事情>

pressココロ上




 先週、一番興味を引いたニュースは「マックが関学生を出入り禁止」でした。普通は、お店がお客様を拒否するような対応は絶対に取りませんから、これはニュース価値があります。「犬が人を噛んで」もニュースになりませんが、「人が犬を噛んだ」らニュースになるのと同じ類のお話です。
 内容を読みますと、関学生のマナーの悪さに業を煮やした店長が学校に連絡をしたことが発端で、それを受けた学校職員が学内の掲示板で学生に「マックへの出入り禁止」を通達したようでした。
 結局、この掲示板に気づいた職員の上司が「マクドナルド」という具体名を出すことの不適切さに気づくとともに、「マクドナルドだけの問題ではない」として文章を訂正したそうです。店長側としては、出入り禁止までは要請していないと話していますが、真偽は定かではありません。しかし、学生のマナーの悪さは事実のようでした。
 「今の若い者は…」は昔から年長者の常套句で、この言葉を発すること自体がおじさんになった証となります。僕はおじさんになることが嫌ではありませんが、そんなこととは関係なく、若い人たちを否定するようなニュアンスがあるこの言葉が好きではありません。新しいことをやる若者気質を失わせる効果があるように思えるからです。ですが、最近の若い人たちを見ていますと、つい言いたくなってしまいます。
 僕はしばらくの間、学生さんたちと接する機会が多い仕事に就いていました。その経験からしますと、「公共の場における振る舞い」に問題を強く感じていました。一言でいうなら、公共心の欠如です。
 わざわざ言うまでもありませんが、公共の場と私的な場では自らの行動は異なって当然です。当然というより異なるべきです。自分や家族、いわゆる身内だけの私的な場と性別や年齢、性格、そして信条などがそれぞれ異なる人たちがいる公共の場で同じ行動をとっていいはずがありません。
 なぜ、同じ行動ではいけないか…。このような問いかけをしますと、以前マスコミを賑わせました「なぜ、人を殺してはいけないか」という問いかけを思い出してしまいます。
 高校時代、僕はバレーボール部に所属していましたが、数少ない同期にサトウ君がいました。サトウは僕より大きな体格でリーゼントがとても似合う男子学生でした。リーゼントですから当然、喧嘩が嫌いではありませんでした。
 もし、「好き」と「嫌い」が右と左にありその真ん中を中間地点としてそれぞれの方向に目盛りがあったなら、喧嘩に対する思い入れは「好き」の近くまで針が寄るくらいのサトウでした。
 そのサトウは、僕のコラムになん回か登場していますのでずっと読んでくださっている方はご記憶の方もいるでしょう。
 ある日、部活の帰りにサトウと二人で歩いていました。僕とサトウは性格が正反対の部分があります。ですから、僕たちが並んで歩いていても、女子高生のように話が弾むということはありません。しかし、その日は、なんか違いました。いつになく会話が「弾む」とはいきませんが、話が「続き」ました。
 その会話の途中でサトウが言った言葉が僕は忘れられません。しかも、そのときのサトウの表情を僕は40年経った今でも思い出すことができます。普段のサトウは苦虫を潰したような表情をしていました(喧嘩をふっかけられるためには苦虫の表情はとても大切です)が、そのときのサトウははにかんだ顔をしていました。苦虫を潰した顔がはにかんだのですから、僕の頭に焼き付いても当然です。
「あのさ、人間には3つの顔があるんだって。ひとりでいるときの顔。親しい人といるときの顔。よそゆきの顔。誰でもこの3つの顔を持っていて、それを使い分けてもいいんだって」
 サトウは喧嘩が好きで苦虫を潰した顔を持つ男子学生でしたので、そのサトウの口からこんな言葉が出てきたのが驚きでした。僕は驚きとともに感心もしていました。サトウの口ぶりからしますと、なにかの本を読んで得た知識のようでしたが、僕は「サトウが難しい本を読んでいた」ことを尊敬しました。それと同時に僕には、サトウ自身がその言葉に救われていたように思えました。つまり青春の悩みから開放されたようでした。
 マックでの学生のマナーの悪さを僕は公共心の欠如と書きました。コーヒー一杯を注文しただけで朝9時から12時間以上居座ることに対して罪悪感はなかったのでしょうか。5人の仲間で入店し一人がコーヒーを注文しただけで残りの4人はなにも注文せずに客席を占有することになんの後ろめたさは持たなかったのでしょうか。
 僕が経験した学生の公共心の欠如を感じた振る舞いはゴミです。普通、ゴミはゴミ箱に捨てます。ですが、僕が見た学生はゴミをどこにでも捨てます。例えば、テーブルの上。例えば、椅子の下。例えば、ドアの入り口の裏側…。
 確かに全員ではありません。ですが、その割合が高くなっているのは間違いありません。自分の部屋や自宅内であるなら、どこに捨てようと構いません。しかし、公共の場は自分が自由に振舞っていい場ではありません。各個人がみんなのことも考えながら行動することが求められます。そういう意識が昔より減っていっている感じがします。「昔」とはもちろん僕の学生時代を指します。
 サトウは「自分に3つの側面があること」に悩んでいました。いったいどれが本当の自分かがわからず、そして3の側面を使い分けている自分にズル賢さを感じていたのでしょう。そのときに、それを肯定している本を読んで安堵したのです。しかし、この悩みは裏を返せば3つの自分があることを示しています。昨今の若者とは正反対です。
 公共心の欠如とは「ひとりでいるときの自分」「親しい人といるときの自分」「よそゆきの自分」を使い分けていないことです。どこに行ってもどの場面でも、「ひとりでいるときの自分」か「親しい人といるときの自分」しか出さないことです。「よそゆきの自分」を出さないことです。
 もしかしたなら「出さない」ではなく「出せない」のかもしれません。元々持っていなければ「出せる」はずもありません。このような状態で、社会に適応できるはずがありません。
 「よそゆき」の顔を持っていないとき困ったことがおきます。社会に出たとき、正しくは就活を始めたときです。企業が3つの顔を使い分けられない学生を採用するはずはありません。仕事とは、社会人とは、まさしく3つの顔を使い分けることにほかなりません。
 大学教授がマック事件について論評していました。しかし、その論評はステロタイプでしかありませんでした。販売で接客をしている側がお客様に対して拒否など容易にできるわけはありません。接客業の経験がない世間知らずの頭でっかちの人間に現場の大変さがわかるはずがありません。
 学生の皆さん、学生時代の間に1回でよいですから接客業を経験することをお勧めいたします。
 ところで…。
 男子学生時代のサトウは純朴でした。青春の悩みを持っていたことがその証拠です。そんなサトウでしたが、社会人になり大人になり年齢を重ねるにつれて、僕との距離は遠くなって行きました。理由は、僕が「会うことを拒否している」からです。僕には、サトウが段々と純朴さをなくしていったように感じられました。僕は男子学生時代と変わっていったサトウは好きになれませんでした。
 そんなことを妻に話したら、妻に言われました。
「変わったのは、サトウさんのほうじゃないかもよ…」
 じゃ、また。




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