<マジョリティー>

pressココロ上




 滋賀県大津市の中学生が自殺した事件は、波紋が広がり現在も多くの人の注目を集めています。そうした社会背景も関係あると思いますが、奈良県桜井市で起きた中学生女子のいじめ事件もマスコミで報道されています。僕の想像では、このようないじめ事例は全国を見渡すならもっとたくさんあるように思います。たまたま大津市の事件がマスコミで報道されるにおよび今まで注目されなかった事例が表面化しただけにすぎないのではないでしょうか。
 いじめ問題が大きくなったのは週刊誌が取り上げたことが最も大きな理由です。普段、新聞など読まず社会にあまり関心を持たない層の人たちの関心に火をつけたことが大きな要因です。今週は、女性週刊誌でスマップのキムタクさんまでが自分の体験を振り返りながら、いじめに対する持論を展開しています。
 ちょっと違和感を覚えるのは、週刊誌で、特に女性週刊誌で著名人が自らの「いじめられ体験」を披露していることです。このような告白があまりに多いと、ブームとさえなっている感がしてしまい、よい印象は持ちません。著名人でなくとも、いじめられた経験を持つ人は少なからずいるはずですから、その経験を競い合うような風潮になることを危惧するほどです。今、大切なのはいじめの披露合戦ではなく、いじめで命を絶つ若い人を救うことです。
 ネット上では加害者に対するバッシングも激しいようですが、こうした社会の反応に対して「行き過ぎ」と感じる人は多いでしょう。僕もそのひとりですが、「著名人のいじめられ告白」はそれと似た感情を起こさせます。
 奈良県のいじめ事件についての報道で気になることがありました。この事件は加害者が6人で、いじめが明るみになったのち校長の立会いのもとで加害者6人の保護者が被害者家族に謝罪をしたそうです。しかし、その謝罪する場の設定の仕方に問題があるように感じました。「謝罪する場」というと分かりづらいかもしれません。言葉を変えるなら、謝罪する際の環境づくりです。
 「環境」とは加害者側が一堂に集まって謝罪をする形式にしたことです。この形式ですと、加害者側の人数が被害者側に対して圧倒的に多くなってしまい、謝罪をする雰囲気を醸成することが難しくなるはずです。この謝罪集会のあとの被害者側家族が「反省している感じが見られない」とコメントしていましたが、このような感想を持つのは、この形式にも大きな原因があると僕は思っています。
 加害者側が圧倒的に多い光景を想像してみてください。被害の当事者である女子中学生は加害者の生徒たちの顔も見たくない」という理由で欠席していますが、こうした対応も当然のことです。そうしたことも含めて、この謝罪する形式は適当ではありませんでした。このような形式では、仮に加害者側が心から謝罪する気持ちがあったにしてもその気持ちが伝わりにくい雰囲気になっています。
 この謝罪の場を設けたのは校長のようですが、その形式を考えるときに配慮が足りなかったように思います。もし、民間でサービス業や接客業を経験している人なら、間違ってもこのような謝罪形式は考えないでしょう。民間でこれらの業務に従事している人なら、仮にこのような対応をするなら、そのときは倒産という危機に瀕すると考えるはずです。
 このように謝罪する場の設定形式は、謝罪を効果のあるものにするかどうかに大きな影響を与えますが、そうした感覚を持っていなかった校長の責任は重いと言わざるを得ません。
 学校のトップである校長でさえこのような感覚ですから、教師の方々の感覚も推して然るべきです。もしかすると、そうした感性がないことが、学校でいじめがなくならない根本的理由のようにさえ思います。一時期、「空気を読む」ことに対して敏感に反応する必要性が論議されていましたが、今こそ教育の現場にいる教師の方々は「空気を読む」感性を磨く必要があります。もし、「空気を読む」感性が鋭いなら、学校からいじめ問題はなくなるでしょう。
 今からでも遅くありませんから、加害者側は個別に被害者側に謝罪する形式にするべきです。1対1の謝罪形式にするなら、お互いの心の本当の気持ちがわかります。本当に謝罪したいなら、まずは相手の心を理解することが第一歩です。この形式にするだけで、被害者側の心象はかなり変わるはずです。また、加害者側も真に謝罪の気持ちがあるなら、その気持ちが素直に相手に伝わると思います。加害者側が大勢となる中では、意図しない雰囲気が被害者側に伝わることもあります。くり返しになりますが、個別に謝罪する場を設けるべきです。
 僕の息子が小学生の頃、やはりクラスでいじめが起きました。A君が主に女子児童たちの標的になりました。いじめのやり方は「汚い」ということでA君の机だけ清掃のときにきれいにされなかったり毛嫌いされたりなどしました。このときはA君の両親がすぐに学校に対応を求め、保護者会議などをしました。
 僕は会議に出席しませんでしたが、妻の話では、結局この会議は意義あるものにならなかったそうです。理由は、先ほど指摘したことと同じで、いじめる側が多数派を占めることになったからでした。保護者会議は担任の先生の依頼で開催され、その目的はいじめる側の保護者たちに反省を促すことでしたが、「いじめられるには理由がある」ことを確認しただけになったようでした。そうした流れになったのは、一にも二にも集まった保護者の人たちの構成によります。いじめられる側が少数どころかひとりですから、誰が考えても「多勢に無勢」です。
 結果として、A君は転校することになりました。転校する際に、A君の母親が妻にかけてくれた言葉は僕にとって勲章です。
「あんな状況の中、うちの子供と仲良くしてもらって、本当にありがとうございました」
 A君のお母さんの話では、いじめが起きたあともA君と普段どおりにつきあってくれたのは僕の息子とあとひとりだけだったそうです。僕の息子はどちらかというとおとなしい部類の性格で目立ったことなどするタイプではありません。そんな息子が、まかり間違うとA君と同じようにいじめの標的になる可能性もある行動をとったことが驚きでした。それとともに感激しました。おとなしく優しい性格は今も変わりません。普段の生活では、ほとんど話をすることもありませんが、実は誰にも秘密ですが、僕は息子が大好きです。
 僕には、このような経験がありましたので、謝罪をする際の環境というか状況の重要性を考えます。奈良県のいじめ事件はその意味で、解決方法に間違いがありました。もっといじめる側いじめられる側、双方の気持ちを慮りながら対応すべきした。この責任はもちろん校長にあります。
 民主主義は多数決でものごとが決まります。ですが、多数が支持する結果が正しいとは限りません。多数派が誤りを犯すことはたびたびあります。また、多数であることが、逆に責任を曖昧にします。「自分だけではない」とか「ほかの人も…」などと責任感が希薄になるのが民主儀または多数決の欠点です。
 このように多数決には欠点がありますので、注意が必要です。多数決には「少数意見の尊重」という要件もありますが、この要件は裏を返せば、多数派が少数派に譲歩することです。この多数決の原則を踏まえるなら、謝罪の場は個別にするのが妥当です。
 基本的に、僕には多数派に対する警戒感がありますが、それは多数派が多数を頼りに横暴横柄に振舞う傾向があるからです。いじめが少数派から起きることは絶対にありません。マジョリティー(多数派)は一歩間違うと「魔女リティ」になる危険があることを心にとどめておきましょう。
 ところで…。
 僕の息子は僕に好かれていますが、残念なことに、僕に好かれているからといって、幸せな人生を送れるとは限らないことが、息子の不幸です。
 じゃ、また。




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする