<限界>

pressココロ上




 結局、こうなった…。これが多くの国民の気持ちではないでしょうか。かなり無理があったような感じがするのは僕だけではありますまい。3年前に民主党に一票を投じた人たちの大半は「一度試しに…」という実験のような気持ちがあったと思います。たぶん12月の選挙の結果はその実験が失敗だったことを認めるものになるはずです。
 民主党が政権をとった意義を探すなら、それは政権を担うことの責任の重さがわかったことではないでしょうか。単に、口先だけで空論を主張しているだけではすまないことを表面化させました。実は、同じことが1994年に日本社会党の村山富一氏が首相になったときにもありました。それまで55年体制の中で自民党に反対をしていることだけが存在意義であった日本社会党が、責任政党になった瞬間に将来の消滅を宿命づけられたといえます。
 今になって考えてみますと、やはり自民党は「腐っても政権党」でした。だからといって今の時点での自民党が政権党に相応しいかと問われれば、それも疑問です。
 先ほど民主党が政権党になるにはまだ力不足であることが示されたと書きました。ですが、同じことが自民党にもいえるように思います。下野した自民党を見てわかったことは政権党としては既に使命を終えていることでした。今回の自民党の総裁選挙でもそれが示されましたが、安倍さんの再登板は自民党にはもう人材がいないことを証明したことになります。
 政界を見渡してみますと、与党野党に関係なく人材が偏っている印象を受けます。今回第三極を結集させると頑張っている石原氏や平沼氏はすでに80才を越えています。本来なら第一線を退いていなければいけない年代です。それがこのように前面に出てくるのは人材が枯渇していることの表れです。そして現首相の野田氏は55才で安倍総裁が57才ですが、その中間に属する政治家に有力な政治家がいません。中間といいますと現在60代半ばから後半の方ですが、その年代の政治家に有力な政治家がいないのが不思議です。
 自民党総裁選で敗れた町村信孝氏がちょうどその年代だったのですが惨敗してしまいました。思い起こしてみますと、総裁選で町村氏を除く全員が50代でした。町村氏だけが67才と突出していましたから世代交代はすでに終わっていたのかもしれません。その意味でいいますと自民党は健全な政党といえなくもないのかもしれません。
 民主党が政権をとって最初に力不足を露呈したのは長妻昭厚生労働大臣だと思います。責任を負わない立場でいるときにはミスター年金と賞賛された長妻氏でしたが、実際に責任を負う立場に立ったときは結局なにもできずに終わってしまいました。僕の印象では中間管理職の会社員が一気に取締役になってしまい、部下を管理しようにも具体的なやり方がわからず空回りするばかりでなにもできないまま降格した印象です。
 大の大人が大の大人を管理するのですから一筋縄でいくわけがありません。現在文科相を務めている田中真紀子氏も自民党時代に外務大臣を務めていたときに同じ過ちを犯しています。大の大人が大の大人のいうことを簡単にきくわけがありません。しかも部下となる大の大人は受験戦争を勝ち抜き頭の良さについては自信にあふれ、ある意味傲慢でもある官僚です。そうした官僚が頭ごなしに指図されて素直に聞くわけがありません。そうした心の機微を分からない人が官僚を束ねることができるはずはありません。
 今、書いていて気づいたのですが、田中真紀子氏は自民党と民主党の両方で大臣を務めたことになります。どちらも短期間でしたが大臣を務めたのは事実ですからすごいことです。ですが、それは政党の存在意義が薄れていることを示してもいます。いったい政党とはなんのためにあるのでしょう。
 今回、解散後に民主党議員の中で選挙のことを考えて離党者が続出しています。この動きはつまりこのまま民主党にいても当選する確率が低いと判断したことを示していますが、普通の善良な常識のある国民ならそのような行動をとる政治家が日本のためになる活動をする政治家になるはずがない、と判断するはずです。政治家の方はそのようには思わないのでしょうか。
 離党者を見ていて一番憤慨するのは比例代表で当選した議員が離党することです。それでは民主党から立候補した意味が全くなくなってしまいます。当の議員さんたちにはそのような感覚はないのでしょうか。僕はそれが不思議でなりません。一票を投じた選挙民を愚弄する以外のなにものでもありません。
 民主党の限界は長妻氏の一連の行動に全て表れているように思います。官僚政治の打破といいながら結局、官僚の力を借りずには政治を動かすことができなった現実があります。民主党の政治家がどのように言い繕うがその事実は隠しようがありません。官僚、強しです。
 民主党の限界が見えた末の今回の解散ですが、もしかしたらなこれは民主党ではなく政治家の限界なのかもしれません。そんなことまで考えてしまうここ数年の政界です。1年ごとに変わる首相に継続性のある政治ができるとは思えません。
 つい先週のことですが、田中大臣が大学の新設について物議を醸す騒動を起こしました。大臣が判断したことですから本来なら騒動という言葉は適切ではありません。しかし、解散しましたから結果的には騒動にしかなりませんでした。このようなことで政治家が官僚から尊敬されるわけがありません。きっと官僚の人たちは今回の解散のことまで予想していたはずでそれまでの辛抱と考えていた節もあります。もしそうであるならあまりに情けない現実です。
 政治家に限界があるなら官僚にも限界があります。それは政治家ではないことです。つまり政治を動かすことができないことです。ですから官僚は政治家をレクチャーして自分たちの思い通りに動かそうとします。本当はこの2つが互いに力を合わせ発揮させることが日本国にとって理想の形ですが、簡単ではありません。
 先日のコラムでも書きましたが、東日本大震災の復興予算の使い道があまりに野放図な実態はとても衝撃でした。もしマスコミに指摘されなかったならそのまま使い込んでいたはずです。こうしたことを画策したのはまさに一部の官僚と一部の政治家です。わざわざ「一部」とつけましたが、その一部の日本のためにならない政治家を選ばない、当選させないようにするのが私たち国民の権利です。本来は義務としたいところですが、残念ながら、そして悲しいことにここ最近の投票率の低さから考えますと権利としかいえないのが実状です。皆さん権利を行使しましょう。そうでないと、さすがに日本そのものに限界が見えてくるかもしれません。
 ところで…。
 石原氏の太陽の党と橋下氏の大阪維新の会があっさりと合併してしまいました。「あっさりと」という表現がぴったりのあっという間の合併でしたが、支持する人がどれくらいいるのか疑問です。石原氏が代表に就くようですが、先に大阪維新の会に合流していた国会議員の方々は反発しなかったのでしょうか。そんな疑問がおきました。一時期代表の橋下氏と国会議員の関係がギクシャクしている報道がありましたが、それと石原氏の合流に関係がないとも思えません。
 それにしても大阪市の市長という職務は暇な職業なのでしょうか。僕はそれが一番気になります。普通は市長という職務だけでも大変なはずで、だからこそ民間にひけをとらない高給をとっていると思います。しかし、橋下氏はその市長という激務のほかに国政についても活動しています。そのことは裏を返すと市長としての仕事に手を抜いている、または市長の仕事に100%の力を発揮していないことです。大阪市の市民はそのような不信感を持たないのでしょうか。
 明治維新はそれまでの武士を中心にした世の中を変えるために行なわれました。日本の夜明けともいわれています。夜明けには太陽が必要ですが、その太陽が合併でなくなってしまっては夜明けがこないような気がして心配です。
 じゃ、また。




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