<体罰>

pressココロ上




 僕は若い人の自殺のニュースを聞きますと敏感に反応する性質があります。大人の自殺も嫌なニュースですが、若い人のそれに比べますとショックは少なくて済みます。しかし、若い人の場合はとても落ち込んでしまいます。そんな気分にさせるニュースが先週ありました。
 報道によりますと、大阪市立桜宮高校のバスケットボール部主将が体罰を苦に自殺をしたそうです。なんで、たかが高校のバスケット部での活動くらいのことで若い人が命を絶たねばならないのでしょう。例え全国的に名の知れた強豪校であろうとも関係ありません。僕はとても怒っています。
 僕は基本的にはスポーツ大好き人間で、漫画「巨人の星」や「あしたのジョー」に感動した体育会系の人間です。ですから、努力とか根性とかも嫌いではありませんし、競争原理も肯定的に考えています。しかし、暴力が伴う指導方法には嫌悪感を持ちます。
 当コラム常連の読者の方はご存知でしょうが、僕は高校時代にバレーボールをやっていました。しかも都立高校ではそこそこの強さを誇っていました。その理由は、たまたま居合わせた同学年の部員が一癖も二癖もあり、しかも僕とあと一人を除いた3人の身長が高かっからです。しかし、公立高校ですから私立のように中学時代に実績を残した生徒をスカウトして集めた部員ではありません。ひとりを除いては高校に入ってからバレーボールを始めた連中ばかりでした。
 ある意味、素人の集まりでしかない部員だけで支部大会を常に勝ち進み本大会に進出できるだけの強さを持てたのは顧問の先生の尽力があったからです。先生は当時27才と若く日体大出身で筋肉の鎧をまとったような体格をしていました。ですから、練習はとても厳しく僕としては1年中バレーボールをしていたような感覚さえあります。
 因みに、先ほど同学年の部員の話をしましたが、全員を足しても5人にしかならないのは練習の厳しさが理由です。入部した当初は数十人の新入部員がいましたが、夏休み前にはほとんどが辞めてしまいました。
 僕は今はおじさんですが、昔は少年で、そして考え方が現代っ子でした。「現代っ子」という表現が今の人に伝わるか疑問ですので違う表現をしますと、冷めた感覚の持ち主といったところでしょうか。
 具体的な表現をするなら、どんなことに対しても「たかが…」という思いが心底にありました。例えば、どんなに野球に打ち込み優秀な成績を残しても「たかが野球じゃないか」というような考え方です。また、どんなに勉強ができても「たかが勉強じゃないか」という発想です。僕が最も大切にするのは人間性です。どんなに野球に優れていようが勉強に秀でていようが人間性とは関係ありません。
 こんな僕ですから、もし顧問の先生が暴力で部員を従わせようとする性格の人であったなら僕は間違いなく辞めていたでしょう。しかし、先生はどんなに厳しくとも殴ったり叩いたりなどすることは一度もありませんでした。そして、そうした指導方法が意識しての行動であったことは、日ごろの先生の指導する姿勢を見ていて伝わってきていました。
 僕はその意味でとても幸運だったと思っています。今から40年くらい前の時代ですから、大会の試合会場では、ミスをした選手の頬を先生が引っぱたいたりする現場を幾度も見ていました。そんな光景を見ながら僕はいつも思っていました。
「なんで、あんなにまでしてバレーやるんだろ…」
 この感想は先生と生徒の両方に向けられたものです…。
 バレーボールに限らずスポーツをやっている人はそのスポーツが好きだからやっているはずです。わざわざ嫌いなことを選んでする人はいません。中には、やっているうちに好きという気持ちよりも違う理由が生じてくる人もいるでしょう。例えば、スポーツで体験したことが将来の自分に役に立つとか、褒められた体験が忘れられなくてとか、周りから注目される快感が忘れられない、などといった理由でスポーツを続けている人がいてもおかしくはありません。ですが、始まりは「好き」とか「面白い」という純粋な気持ちだったはずです。
 このようにスポーツをする理由を突き詰めていきますと、究極的には「自分の満足感」にたどり着きます。「好き」も「「面白い」も、また「将来役立つ」も「褒められる快感」も「注目される快感」もすべて「自分の満足感」です。どんなに辛く苦しい練習でも「自分が満足すること」が目的です。つまり「スポーツをする目的」は「自分のため」です。だからこそスポーツには熱中する価値があり、だからこそ耐えることができます。
 しかし、体罰にはその観点が抜け落ちています。「自分のため」のスポーツであるべきなのにうまくいかなかったからといってどうして指導者から体罰を受けなければいけないでしょう。目的は自分のためなのですから体罰を受ける理由などありません。
 にも関わらず体罰をする指導者の発想には「選手のため」という視点はなく、指導者の視点しかありません。百歩譲って、体罰をすることで選手の能力が高まるというのであれば全員が一流選手になっているはずです。しかし、全員が一流選手になることはありません。反対に全員が植えつけられていることがあります。恐怖心です。
 このように体罰と能力アップにはなんの因果関係もありません。では、なぜ体罰をする指導者があとを絶たないのか、というとそれは「他人を支配する快感」から逃れられないからです。人間は弱い生き物ですから「快感」を手放すことがなかなかできません。そして、やっかいなことに「選手のため」と思い込んでいることが体罰がなくならない一番の問題点です。
 体罰がおきる現場を思い起こしてみますと、上下関係が確固していて下の地位の者が反抗「しない」「できない」状況であることです。そうした状況を最も象徴しているのが運動部ですが、もう少し広い視点でいいますと教育現場であり家庭です。そしてこの2つには共通点があります。下の者が子どもであることです。もし大人であったなら反抗する行動を取ることができますが、子どもであるがゆえに従うしかない状況に置かれています。
 スポーツの世界でも大学生くらいの年齢になりますと、退部をしたり、ときには退学を伴うこともあるかもしれませんが、そうした状況から逃れる術を身につけています。しかし、それより前の学年では子ども自らが反抗をする態度や行動を取ることはできません。そうした現実が今回の事件につながっています。
 僕は、だからこそ体罰は絶対にしてはいけないと考えています。相手に選択の自由がない状況かつ環境の中で体罰があっては子どもたちが本当の実力を発揮することはできません。
 今現在、体罰をしている先生や親御さんたちはそのことを肝に銘じてほしいと思います。体罰は生徒や子どものためではなく、体罰をする側が快感を得たいがための行為でしかないことです。
 人間は狡賢い生き物ですから少し油断をすると、すぐに偉い立場や楽な環境に安住したくなります。そのほうが自分の思い通りにでき、それが快感であり快楽だからです。先生や親はまさにそうした立場であり環境にいます。そして、そうした立場や環境にいることは他人を傷つける機会が多いことでもあります。さらに恐いことに優越的な立場や環境にいるだけに他人を傷つけることに鈍感になりやすくなっています。
 自分で気がつかないうちに他人を傷つけているときほど残酷になっていることはありません。傷つけていることをわかっていないからです。そのようなことを起こさないように、常に自分を戒める気持ちを忘れないようにしたいものです。
 ところで…。
 本文で、体罰の愚かさを訴えてきましたが、絶対にやってはいけないかというとそうでない場合も、実はあります。それは言葉が通じないときです。
 赤ちゃんは言葉がわかりませんからいくら言葉で説明をしても意味が通じません。例えば、熱いストーブに触りそうな状況にいるとき「このストーブは熱いから触ったら駄目」と言ったところで赤ちゃんにはわかりません。そういうときには体罰を活用します。触ったときに手を叩くなどの体罰を与えることで赤ちゃんは「熱い」ということを理解しなくとも叩かれることを恐れてストーブを触ることをしなくなります。
 このことから体罰は言葉が通じないときに効果があることがわかります。まるでパブロフの犬のような話ですが、これ以外に人間になりきっていない赤ちゃんを危険から守る方法はありません。
 この事実を裏返すなら、体罰は相手を人間と認めていないことの証明になります。相手を人間と認めていない先生に指導されたり、または親にしつけられたりする子どもほど不幸なことはありません。
 じゃ、また。




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