<経営者の宿命>

pressココロ上




 僕たち夫婦はたまにダイエーを利用しています。売り場を回っていますとイオングループのPBであるトップバリューの商品が幾つも見られました。ですから、僕はダイエーはイオングループの一員と思っていました。ところが先日の報道で「イオンが丸紅から株式を買い付けて子会社化する」と知り驚いた次第です。
 これまでにも幾度か書いていますのでご存知の方も多いでしょうが、僕の社会人としての第一歩は中堅スーパーでした。ですからスーパー業界にはいつも注目していたのですが、スーパー業界のトップを走り続けていたダイエーには強い興味を持っていました。僕が勤めていたスーパーも紆余曲折のあとにダイエーに吸収合併されたのですが、その紆余曲折もとても印象に残っています。
 1980年代後半、日本は未曾有のバブル期に突入しました。当時は誰も彼もが株の売買をするのが当たり前のような状況にまでなってしまい、今から思いますと常軌を逸した行動を社会全体がとっていました。その後1990年代を失われた10年などといっていたのをご存知の方も多いでしょう。「失われた10年」とはバブルの後遺症のあと始末に費やされなければいけなかったからです。そして終には「失われた20年」とまでいわれるようになってもいました。それほどバブルの後遺症が大きかったことを示しています。
 当時、バブルが起きたのは日本中にお金が有り余っていたからです。その有り余ったお金の使い道として土地や株に向かったためにバブルになったわけです。実態以上にわけもなく評価が上がったのですからいつかは弾けて当然です。
 では、「なぜ、お金があり余ったか」といえばそれは日銀がお金をドンドン市場に供給したからにほかなりません。では、「なぜ、日銀がお金をドンドン供給したか」といえばそれは円高不況が産業界を痛撃していたからです。
 では、「なぜ、円高不況になったか」といえば1985年に先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議が開催されプラザ合意が発表されたからです。これにより一気に1ドル150円くらいになり日本の輸出業者が悲鳴を上げることとなりました。考えてもみてください。それまでボールペンを1本売って230円の売上げだったものがなにも悪いことをしていないのに150円の売上げにしかならなかったとしたら誰でも悲鳴を上げます。
 これが円高不況といわれるものですが、こうした輸出業者の苦境の声に応えるように金利を下げて融資を拡大させていったのがバブルの発端でした。当時は銀行なども融資の審査が甘く土地という担保さえあればよほどのことがない限り融資を実行していました。
 僕の個人的な反省を告白するなら僕はバブルが弾けたことで約1千万円の損失を被ってしまいました。これも自分の経済オンチぶりと先見の明のなさにあきらめるしかありませんでした。
 僕のことはともかく、僕が今心配しているのはアベノミクスによる最近の株価の上昇です。以前も書きましたが、今の株価の上昇にはなんの根拠もありません。ただ雰囲気があるだけです。株式業界の人たちはこのチャンスを逃すまいとあの手この手で新しい株式参加者を取り込む活動をしているように見えます。
 先日の報道では過去最高の出来高が為されたそうですが、これなどは新しい株式参加者が増えていることの証拠です。また経済誌なども雑誌売り上げのためとはいえ株式の特集を組んでいますが、僕からしますと「売上げ至上主義があからさまな行動」のように思えてしまいます。
 僕と同じような考えの人も必ずいると思いますが、そうした声があまり大きな声にならないところにマスコミの問題点があるように思います。少数派の意見も大きく取り扱う姿勢があっても然りです。過去を振り返ってみても大多数の人が賛成したり支持したりした主張があとから振り返ったときに間違った選択であったことのほうが多いですから…。
 さて、話が大分脱線してしまいましたが、金余りが過ぎたバブル期にはいろいろな策士が経済界を跋扈しました。以前大分前ですが、僕はこのコラムで当時の策士として暗躍していたAIDSについて書いたことがあります。この頭文字の最後にあたるSの秀和という会社があり、その会社は表向きには流通業界の再編を掲げ、いろいろな流通業の株式を集めていました。しかし本当の理由は、株を高く買い取らせることにありました。
 このような状況のときに救いの手を伸ばしたのがダイエーだったわけです。このようにしてダイエーはさらに業容を拡大させていきました。「救いの手」と書きましたが、この表現はあくまで僕の個人的感想にすぎません。ダイエーにしていますと濡れ手で粟の状態で中堅スーパーを買収できたことになります。
 このようにして成長してきたダイエーでしたが、後退が始まったのは1995年の阪神淡路大震災でしょうか。このときを境に業績悪化が伝えられるようになった印象があります。その証拠に2000年への残り5年間には陸上部やバレーボール部が休部となっています。そして2005年に産業再生機構に経営権が映り中内さんのダイエーは幕を降ろすことになりました。少し前、新聞で中内さんのご長男である潤氏の記事が掲載されていました。それこそ栄枯盛衰を間近で見てきた経験がありますし、ときには自分が矢面に出て対応してきた経験がありますのでとても興味深く読むことができました。
 記事によりますと、あれだけの成功を収めていながら最後に残っていた資産は流通大学だけだったそうです。田園調布の豪邸や芦屋の別宅なども全て差し押さえられており葬儀のあとも自宅に戻ることができず直接お寺に行ったという話しなどを聞くと世のはかなさを感じずにはいられません。流通大学を残ったのも当時の三井住友銀行頭取の西川氏の「せめてもの慰みに」という計らいがあったからでした。経営って本当に難しいですよねぇ。
 僕が勤めたスーパーは最終的にはダイエーに吸収されたのですが、そのときに僕が注目したのは創業者の行く末でした。結論をいいますと決して悪い状況ではありません。なぜなら自分が創業した企業の株式を売ったことでそれなりの現金を手に入れたのですから申し分のない人生ではないでしょうか。
 IT業界では、創業した企業が取るべき出口は2つあるそうです。ひとつが株式を上場させることでこれによって莫大な資産を手に入れることができます。ふたつめが成長を見込めるだけの業績にしてから自社株を売ることです。たぶん手っ取り早いのは後者ですが、資産の大きさでいうなら前者です。どちらにしても創業した起業が実績を上げることが大前提ですが、並大抵なことではないのは周知のことです。
 先日、安倍首相が解雇がやりやすくするための法整備に着手する旨を発表しました。その趣旨は成熟産業から成長産業への雇用の移行だそうですが、そのためにも成長産業がたくさん増えることが必要です。そのためにも若い人はリスクを恐れず起業に挑戦する気概を持ってほしいと思っています。世の中の全員が給料もらう側ばかりでは世の中はまわりません。ある一定の割合の人が給料を支払う側になって初めて世の中は回ります。そのためにも若い人は頑張ってください。
 ところで…。
 僕が最近注目している経済記事に西武HDに関する主要株主と経営陣の対立があります。その理由は、西武HDの社長が後藤高志氏だからですが、僕は後藤氏について「この人きっといい人」と思っています。
 後藤氏についてはわざわざ説明するまでもありませんが、第一勧銀で改革4人組として活躍した人です。金融腐敗列島という本のモデルとなった方々ですが、その後、みずほコーポレート銀行の代表取締役・取締役副頭取を務めたあとに西武HDに出ています。その経歴をみるだけで充分魅力的な人物であることがわかります。
 銀行の人事の難しさを痛感するのは改革4人組のその後に表れています。決して虐げられているわけではなく要職についてはいますが、その職の軽さを思わずにはいられない役職です。
 僕が軽さを感じるのは国鉄の改革3人組と比較するからです。国鉄にも赤字を垂れ流して平気でいた幹部に対して改革を訴えていた3人組がいました。葛西 敬之氏、松田昌士氏、井手正敬氏ですが、この方々はいずれもトップに就いています。それを思うとき第一勧銀の改革4人組のその後が軽く思えて仕方ありません。
 第一勧銀といえば僕が忘れられないのは第一勧業銀行の宮崎邦次元会長が自殺した事件です。「会長はなぜ自殺したか」を読みますと、会長である宮崎氏が気軽な気分で総会屋・小池の事務所を訪問するようすが記されています。そこにはあまりに無防備で親しげに接している宮崎会長の振る舞いが書いてあります。僕はこの部分を読んでいていじめられっ子がいじめっ子に無理やりおもねていく様を感じました。
 子どもの世界でもいじめはやっかいですが、大人の世界ではもっとやっかいです。弱肉強食のビジネス界で生きていくのは本当に大変です。世の真面目なビジネスマンの方々くれぐれも自分を失わないようにして頑張っていきましょう。
 じゃ、また。




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