<成長>

pressココロ上




 ゴールデンウィークも残りわずかになってきましたが、皆さんはどのような連休をお過ごしでしょうか。帰省した方もいるでしょう、海や山へレジャーに出かけている人も多いでしょう。その証拠に僕のサイトへの訪問者がいつもより少なくなっています。
 僕はといえばゴールデンウィークもほとんど関係なく普通の生活を、ごく平凡に送っています。僕はそのほうが幸せを感じます。
 世の中はお休みが続いていますので浮かれ気分が蔓延しているように感じます。ですが、先週一週間のニュースに目をやりますと、政治の世界に注目が集まる出来事が幾つかありました。
 4月28日は安倍首相の肝いりで実現した主権回復記念日でした。政府が主催して天皇皇后も出席した式典が開かれましたが、この記念日に対して沖縄の人たちは強く反発しています。ニュースによりますと、沖縄の人たちは「見捨てられた日」という思いがあるようです。主権が回復したといっても、沖縄や小笠原など幾つかの諸島は米国に占領されたままだったからです。反発するのも当然です。
 そして5月3日は憲法記念日でした。例年、この時期になりますと、憲法論議がかまびすしいのが常ですが、今年はその感が特に強い印象があります。安倍首相をはじめとした日本維新の会の橋下共同代表など有力な政治家が憲法改正を訴えています。まず、手始めとして憲法96条の改正に着手しようとしていますから、本気度が伝わってきます。
 ご存知の方も多いでしょうが、簡単に説明しますと、憲法を改正するには国会議員の2/3の賛成が必要ですが、その2/3という規定をしているのが96条です。ですから、最初に96条を改正して「2/3」という条項を緩めることからはじめようとしているわけです。このような手順をみていきますと、憲法改正が現実味を帯びてきているように感じます。
 これまでのように、セレモニー然とした憲法改正を声だかに叫んでいたときとは違う緊迫感があります。「もしかすると、もしかするかも」という気分になるほど、96条から手をつけようとしている憲法改正派の動きには真剣味を感じます。
 ニュースによりますと、96条からはじめることに同調している政治家や党はかなりの割合でいるそうです。しかし、その先に描いている絵は違うようで、いわゆる同床異夢の状態です。例えば、改正後の絵を首相公選制を思い描いている人もいれば、天皇を元首とすることを考えている人もいるようです。もちろん、昔からの議論である自衛隊の正式な認知を考えている人もいます。
 このように将来に描いている絵は違っていても、憲法改正という一点においては主張が一致している政治家が多数います。この事実が、僕が憲法改正の実現性が高いと思ってしまう理由です。
 だからこそ、僕は不安です。着地点が違っているのに飛び上がってしまっては正しい飛行ができるはずがありません。思わぬ方向へ行き、考えもしなかった場所に着地してしまう可能性もあります。
 僕がこのように書いていることから、読者の方はおわかりだと思いますが、僕はいわゆる護憲派の考えに賛成です。しかし、社民党や共産党のように「骨の髄まで護憲派」というほど強い信念があるわけではありません。「どちらかというと…護憲派」という程度のレベルです。
 僕が危惧するのは、ヒョンなことです。偶然に偶然が重なって世の中が悪い方向に進んだ過去を、日本といわず世界も持っています。そうした危険を考えずにはいられません。僕はそうした危険を感じてしまいますので、今のところは96条の改正にも反対です。
 政府の主権回復の記念日が催されていたとき、沖縄では屈辱の日という式典が行なわれていました。しかし、それを伝えるニュースで沖縄の大学生がその大会について知らなかったことも報じていました。僕はそれが不思議でした。これだけニュースで報じられているのですから沖縄の人たちはほとんど全員が政府が主催する主権回復の日に対して反発していると思っていたからです。しかし、大学生たちは知りませんでした。
 番組では、大学教授が授業でその学生たちに屈辱の日という大会を開催する意図を説明しているようすが映し出されていました。結局、学生たちは教授の説明や解説に刺激を受けて屈辱の日の大会に出席するのですが、参加後に受けたインタビューで「こうしたことをもっと伝えていきたい」と語っていました。
 教授はこの学生たちの姿を評して「成長した」という言葉を使っていたのですが、僕にはどうもしっくりこない違和感が残りました。「成長した」という表現にです。
 経営について解説している本には経営に関する箴言が幾つも書いてあります。そのひとつに「過去の成功例に縛られてはいけない」という言葉があります。この言葉の意味をわかりやすく表現しますと、「昔と同じことをやっていてもうまくいくはずがない」ということです。今流の言葉でいいますと、「常にイノベーションをしていなければいけない」ということになります。
 イノベーションを辞書で調べますと、革新などと説明していますが、新しい切り口や発想をすることです。そして、世の常として「新しいことは、最初は否定される」のが現実です。それまでの価値観と違うことですから、受け入れられるまでに時間が掛かって当然です。下手をすると、認められる前に消えてしまうことさえありますからイノベーションが社会から認められるのは容易ではありません。
 さて、ここで「成長した」という言葉です。「成長した」と評価する人が問題です。先の大学生の例でいいますと、「成長した」と評価したのは大学の教授です。学生の側からしますと評価されたことになります。そして、これは、、大学の教授の価値観で計っています。「価値観」は「考え」と言い換えてもよいでしょう。「主義」や「主張」ともほぼ同義語です。
 学生たちが屈辱の日の大会に参加した行為は教授の価値観や考えに近づいたことに過ぎません。つまり、「成長した」とは教授の考えに近づいたことを意味します。もしかするとさらに進んで「重なった」のかもしれません。僕が違和感を持ったのはそこです。
 安倍首相は教育にも力を入れていますが、ある意味、教育とは子どもをマインドコントロールすることです。その証拠に年端もいかない少年が間違った教育を受けて自爆テロをしています。教育は子どもを洗脳することさえ可能です。
 だからこそ慎重さが必要です。
 本当の教育とは子どもに選択の幅があることを教えることです。世の中には「いろいろな」「たくさんの」「複雑な」考え方があることを教えることです。僕は、そう思います。
 さらに一歩進めて、僕は「忘れること」も「いろいろな」ことのひとつにつけくわえてもいいのではないか、とさえ思っています。世界から争いがなくならないのは、それぞれが過去に受けた苦しみを忘れていないから、と僕には思えるからです。
 成長とは大人の考えに沿う人間になることではありません。成長とはものごとを見る視点が増えることです。教育で子どもを成長させることは、大人の考えに従うように洗脳することではありません。世の中にはいろいろ視点があることを教えることです。
 イスラエルとパレスチナも成長してくれればいいのに…。
 じゃ、また。




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