<読解力>

pressココロ上




 1979年の出来事ですから、もう今から30年以上も前ですが、さだまさしさんの関白宣言という歌がヒットしました。当時、僕は青春の真っ只中にいまして、大学生活を謳歌していました。ろくに学校にも行かずにバイトと遊びで忙しかった頃です。そのときに巷ではこの関白宣言が大ヒットしていて、社会現象にまでなっていました。
 さださんの親友の松山千春さんはコミックソングとからかっていましたが、確かにマンガの世界を描いているような歌詞です。基本的にさださんは、千春さんがいうところのコミックソングを得意にしています。例えば、グレープの頃の「朝刊」は田渕由美子さんの世界を彷彿させる歌詞の内容です。
 話は少しそれますが、田渕由美子さんの漫画で僕が一番好きで今でも絵が頭の中に浮かぶのは「クロッカス咲いたら」です。この作品が発表された頃は僕はまだ妻とは出会っていなかったのですが、結婚したあとにこのマンガを読んだことがあるだけでなく、好きなマンガの上位に入っているのを知ったときは驚きました。
 同じ漫画を僕は東京で、妻は青森で読んでいて、そして同じように感動していたことに不思議な気分になったものです。
 当時、そのほかに僕が好きだった漫画家は陸奥A子さんとかみつはしちかこさんでした。みつはしさんはチッチとサリーが登場する「小さな恋の物語」で有名な方ですが、この漫画はみつはしさんという漫画家個人の素朴さや純粋さが描かれているような作品でした。僕が今好きな漫画家に益田ミリさんという方がいるのですが、僕の中では益田さんはみつはしさんと同じ匂いがすると思っています。
 さて、関白宣言は歌のヒットから映画まで製作され、それこそ社会現象にまでなりました。これほど注目されますと、いろいろな方面から様々な意見や批判などがおきます。現在のようなブログやSNSがない時代でしたが、それでも反響はありました。そして、そうした社会現象を伝えるのは新聞や雑誌といった紙媒体しかありませでした。
 ある日、新聞に「亭主関白は女性蔑視の歌である」というような見出しが出ました。これから遡ること4年前、テレビCMで注目される事件が起きました。ある即席ラーメンのCMが放映を中止したのです。正確には「させられた」のでした。
 このCMは女性が「私、作る人」と言い、男性が「僕、食べる人」というだけの台詞だったのですが、これが当時のウーマンリブとか女性解放を謳う団体から批判されたのです。男女間の差別などに敏感な雰囲気が世の中に蔓延しつつあった時代です。そんな時代背景の中、さださんの関白宣言は批判の対象になったようでした。
 しかし、僕にはその批判は的外れのように思えました。なぜなら、歌詞を一部分ではなく全体を通して読むならば、そこには関白ぶる男性の光景が見えなかったからです。
 確かに、歌詞の一部分だけを読みますと、妻を家政婦のようにこき使うことを目指しているように感じる内容があります。
 「俺より先に寝てはいけないし、あとに起きてもいけないし、めしはうまくつくれ」などという歌詞からは自分中心の考え方しかできない傲慢な亭主像が思い浮かびます。
 でも、ほかの部分の歌詞をよく読みますと、そうした主張が本心ではないことがわかります。全体を通して亭主が妻に言いたいことは、「ふたり仲良く力を合わせて、足りないところは補い合い、お互いを信頼し合って、ずっと生きていこうね」です。
 いちいち歌詞の「この部分」などと野暮な解説はしませんが、歌詞を素直に全部読み込み理解するなら関白亭主とは全く異なった亭主を目指している男性の姿が見えてきます。
 なのにウーマンリブを目指す団体やフェミニストたちから、表面的な言葉だけを捉えて批判されました。当時、僕はそれが不思議でなりませんでした。
 麻生副首相があるシンポジウムに出席したときの発言が物議を醸し批判されていました。あれから1週間以上が過ぎ、少し収まった感がありますが、僕はこの騒動を見ていて関白宣言を思い出した次第です。
 僕は個人的に麻生氏の特別なファンでも支持者でもありませんが、麻生さんの発言には「ナチスを賞賛したり、認めたり、真似をしたほうがよい」などという趣旨の内容はどこにもないように感じました。反対に、発言全体から感じるのは、ナチスを批判非難する意図です。
「ナチスのやり方を参考にすればいい…」は逆説的な意図で使っているのは全体の文脈をきちんと理解して読めばわかることです。それを表面的な言葉だけを捉えて、批判するのは的外れなように思います。
 但し、麻生氏の発言のTPOは反省する必要があります。そもそも麻生氏の社会的立場からしますと、あのシンポジウムに出席したこと自体に軽率さを感じます。
 麻生氏は以前から失言をたびたび繰り返しているようで、ニュース番組ではわざわざリストにして紹介していました。僕はどちらかと言いますと、麻生氏のウィットに富んだ軽口が好きなタイプの人間です。ですが、今回はやはりTPOの面で軽率の誹りは免れないでしょう。
 それは認めつつも、でも、社会全体における文章や演説に対する読解力の未熟さも感じずにはいられません。表面的なことだけでなく、その文章や演説の真に言いたいことを理解する、または察する能力はとても大切です。
 向田邦子さんの著書に「あ・うん」という小説があります。これは一組の夫婦とその夫の友人の三人のそれぞれの心の中にある三角関係を綴った本です。口では言わないけれどお互いにわかっている、そしてなお触れず、さりげなく振舞う男同士の友情の話です。
 この話が成り立つのは、お互いが表には出さない相手の気持ちを察する能力が長けているからです。相手の気持ちを察する能力、即ち読解力です。もし、三人のうち誰かひとりでも読解力がなかったなら三人の微妙なバランスは崩れていたのではないでしょうか。
 最近のマスメディアを見ていますと、単に揚げ足取りに終始しているように感じてしまいます。マスコミの人たちは本来は最も読解力に長けていなければいけない立場の人たちのはずです。それにも関わらず表面的な言葉尻を取り上げて批判するのはお粗末な印象さえ感じます。
 読解力は人間関係をスムーズにし、そして魅力的なものにするのに必要な能力です。そうした日本人が持っている能力が少しずつ落ちているとしたならこれほど哀しいことはありません。
 じゃ、また。




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