<ロミオとジュリエット>

pressココロ上




 パソコンを使いはじめのころ、パソコンはワープロの代わりでしかありませんでした。まだインターネットも普及していませんでしたから、パソコンは単なるワープロと同じでした。
 その頃は文字を打つのさえうまく打てずに、思い通りに文章を書けないことにイライラすることが度々ありました。僕の記憶の中で一番頭にきてイラついたのが「ウ」に「 ゛」を打つ文字です。これだけではわかりにくいでしょうから例をあげますと「ヴィーナス」です。この「ヴィ」の打ち方がわからず二日間ずっと頭の中が「ヴィ」で一杯になったことがあります。
 この僕の記憶は今から20年くらい前のことですが、僕にとっては印象深く今でも当時のイライラ感を思い出すことができます。誰でも自分の過去で印象に残っていることは記憶に残っているものです。このとき「いい印象」であるなら問題ありませんが、「悪い印象」のときはやっかいです。「悪い印象」がずっと記憶に残り自分の感情に影響を与えることがあるからです。
 先週は終戦記念日がありました。毎年、この時期になりますと戦争について考える、または考えさせられるテレビ番組が放映されます。そうした特別番組で僕が一番印象に残っているのは、さんまさんが主役を演じた「さとうきび畑の唄」というドラマです。
 僕は毎年、この時期にさんまさんのこの番組について書いているような気がしますが、でも書きます。
 さんまさんがドラマの中で最後に言う台詞
「わいは人を殺すために生まれてきたんやないんや」。
 人は誰でも幸せになるために生まれてきたはずなのに、どうして殺し合いという戦争をするのでしょう。
 15日にNHKで放映されていた、やはり戦争を考える討論番組を見ていて感じたことがあります。出席者は戦争に関する小説などを得意とする老齢の作家、元官僚で政府の顧問なども務めた外交専門家、人権団体の女性代表、アフガニスタンで武装解除にも携わった経験のある大学教授、それから若手評論家が2名でした。
 それぞれ生きてきた時代も環境も違う人たちが戦争について語るとき、第三者の僕からしますとすれ違いの感があります。俗にいう「噛み遭わない」という表現が合うと思いますが、お互いが考えていることが相手に伝わっていないように感じました。
 討論の中で、若手の論客が「結局、戦後68年間、先の戦争を総括してこなかったことが全ての根源」といったような話をしていました。この言葉を聞いていたほかの出席者の幾人かが頷いていましたが、僕には不思議に思えて仕方ありませんでした。
 戦後68年も経っているのです。そのたびに同じような戦争を考える、または考えさせる行事が行なわれてきています。新聞やテレビなどたくさんのメディアがありますが、それらの全てといっていいほどのメディアが毎年特集などを組んでいました。たぶん60回以上はそれぞれの時代の偉い人や頭のいい人や学者や評論家や知識人が先の戦争を「総括してきた」はずです。
 それなのに「これまで総括してこなかった」と言ってしまうことに違和感を感じます。戦後68年間、いったいどれだけの偉い人や頭のいい人や学者や評論家や知識人がいたことでしょう。そして、意見や考えを述べてきたはずです。それなのに「総括してこなかった」と30代と思しき若い評論家に言われてしまうのです。
 戦後68年の間にいた全ての偉い人や頭のいい人や学者や評論家や知識人たちは、このように言われて反発心や憤りを感じないのでしょうか。そうであるなら、そこにこそ今の日本の戦争に対する中途半端な姿の根源があります。
 でも、来年も再来年もそのあともずっと、同じ反省が繰り返されるように思います。
 エジプトでは内戦が始まろうとしているように見えます。わずか2年前にアラブの春とまでいわれていた民主化は挫折をしそうです。日本でニュースを見る限りでは現在の暫定政権に非があるような印象があります。日本のニュースとはいわゆる西側諸国という意味ですが、それについても僕は疑問を感じています。
 以前、本コーナーで戦争広告代理店という本を紹介したことがあります。ユーゴスラビアが崩壊したあとの民族紛争について綴った本ですが、内容は「いかにして西側諸国に自民族の正当性と他民族の横暴性をプレゼンするか」でした。ユーゴスラビアはセルビア人やクロアチア人など様々な民族と宗教が入り混じっていたために紛争が勃発したといっても過言ではありません。
 そうした状況の中である民族が有名な広告代理店を雇って米国および国際社会から支持を受けられるように画策した模様を綴ったのが戦争広告代理店という本です。実際、この広告が功を奏してこの民族は国際的に支持される立場になりました。つまり、正義は自分たちにあるという評価を勝ち得たことになります。
 但し、のちにこの評価には疑問が投げかけられることになりますが…。
 僕はこの本を読んで、日本など資本主義国における広告宣伝の持つ恐さを考えさせられました。全てのことはプレゼンのうまさで決まってしまうようなところがあります。
 今、勝ち組といわれる企業群に共通しているのは、経営の中枢に広告宣伝のクリエーターといわれる人たちがいることです。僕はそれを不快に感じています。
 飲食業でいうなら、料理そのものの味や魅力よりもいかにしてマスコミに取り上げられ宣伝広告を上手にできるかが成功の可否を決めることと同じです。
 僕は今、NHKのあまちゃんにハマっていますが、主人公アキの母である春子(小泉今日子)がプロデューサーである荒巻にこうタンカを切る場面があります。
「普通にプロモーションをやって普通に売る努力をしなさいよ」
 この朝ドラは、プロモーションとか宣伝のやり方が成功の可否を決める現在の芸能界の状況を批判する意図があるように思えてなりません。
 現在、日本と韓国は歴史問題で対立を深めていますが、それを象徴する出来事として米国で慰安婦の銅像が建立された問題があります。この問題も、僕からしますと戦争広告代理店が頭に浮かんできます。
 かつてドイツのヴァイツゼッカー大統領は「過去に学ばないものは未来に対して盲目となる」と名演説をしました。確かにこの言わんとすることはわかるのですが、僕は最近過去のことを忘れることが怨恨をなくすひとつの方法なのではないか、と思っています。
 過去の恨みをいつまでも引きずっていたなら、いつまで経っても平常心で向き合うことはできません。実際、以前見たテレビのインタビューでは、韓国の若い人で歴史に無関心な人は日本に対して反感や嫌悪感を持っていませんでした。
 大人はそうした若い人が増えることを快く思わないところがあります。自分たちの怨念をいつかし返してほしいと思っているからでしょう。しかし、それではいつまで経っても明るい未来はやってきません。
 過去に学ぶことと過去を忘れないことは違うはずです。ロミオとジュリエットも過去に学ぶのではなく、過去を忘れたくない大人たちによって幸せになれなかったのではないでしょうか。
 それにしても、スクリーンで見たオリビア・ハッシーの美しさは忘れられません。
 じゃ、また。




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