<レオンとオズマと飛雄馬>

pressココロ上




 ソチオリンピックで羽生選手が金メダルを獲得しました。弱冠19才での金メダルですから、まさに快挙というにふさわしい活躍です。羽生選手に対して僕が印象に残っているのは国内での代表選手を決める大会での演技でした。意識しての動作なのか無意識なのかはわかりませんが、4回転を成功させたあとの両手を広げて「やったー!」といわんばかりの振り付けは自信のありようを示していました。あのときの演技はほかの選手を寄せ付けない圧巻の演技でした。僕には、今の羽生選手には神が降りているような感じさえ映ります。
 メダル最有力候補といわれた高梨選手が4位と沈んだのは残念ですが、それよりも終わったあとのインタビューに強い印象を受けました。インタビュアーの質問に対して必死に涙をこらえて丁寧に答えているさまは「けなげ」という言葉がぴったりの雰囲気でした。あの若さで、というよりもまだ幼さが残っている風貌で、あのような立派な受け答えをしていることに感動しました。そして、同時にそのような対応をしなければいけない代表という立場にやりきれなさを感じました。
 高梨選手の受け答えを聞いていて感じるのは「しっかり」しているということと、その裏返しですが、周囲の大人を意識した言動をとることです。どう考えても15才の女の子が「先輩たちに感謝して」などという台詞を自ら考えたとは思えません。「言わされてる」とはいいませんが、常にそのような言葉に囲まれていたことは間違いのないところでしょう。
 僕は教育とは「周りの大人の言動に感化されること」と思っています。ある意味、洗脳ともいえると思っています。ですから、いい悪いではなく、高梨選手はそのよう環境の中で練習をしていたのは間違いのないように思えます。
 今回はスケートボードで15才と18才という超若い選手がメダルを獲得しました。そのこと自体はとても素晴らしいことですが、その実力がホンモノかどうかには疑問符がつくべきだと思っています。
 僕は、ホンモノの実力は自我が芽生えたあとに出てくると思っています。というよりは、自我が芽生えたあとの実力こそがホンモノの実力です。それまでの実力は選手というよりも選手という機械としての実力に過ぎません。子供の頃に特定のスポーツの才能を大人に見出され大人にいわれるままに努力を重ねた結果の選手です。
 機械は自ら考えることはできません。コンピューターでさえ命令がなければなにもできません。ですから、なにも指示を与えられなければ力を発揮することができません。
 水泳の北島康介選手が2度の金メダル獲得のあとに日本を離れ、米国に拠点を移したのは自我の表れだと思っています。それまでは、コーチにいわれるままに水泳に取り組んでいただけだったのに対して自分の足で立ちたくなったのです。
 単なるロボットとしての実力から人間としての実力に変化することは大切です。しかし、人間に変化したことからといって必ず実力が上がるとは限りません。ときには実力が落ちることもあります。それは、ホンモノの実力にはすべての人間に備わっている感情という要因が影響するからです。それまでは単なるスポーツ選手という機械として活躍しているに過ぎません。ホンモノの実力は自我が芽生えてからです。北島選手のコーチを務めていた平井氏はそれを理解しており、北島選手が先のオリンピックで負けたときに、奇しくも「人間になった」と表現していました。
 結局は代表選手に入れなかったフィギュアスケートの安藤美姫選手ですが、僕の中では自分の足で立っているように感じられてとても好感でした。周囲に振り回されることなく、自分の意思で行動しているさまは見ていて気持ちのいいものでした。たとえ、多くの良識のある大人から批判されようとも自分の行動をとった勇気に乾杯です。
 オリンピックで金メダルをとるのは実力だけでは無理でときの運も必要です。タイミングといってもいいかもしれません。それられがうまく噛み合ったときに初めて金メダルを獲得できます。だからこそ、連覇や3連覇に価値があります。
 無冠の帝王という言葉がありますが、そういう人たちは実力がありながらも冠を手にする運命から見放された人です。反対に、実力は今ひとつながらもたまたまラッキーパンチがあたって世界チャンピオンになる人もいます。それこそ人生は実力どおりに進むとは限りません。なにがおこるかわからないのが人生です。ですから、肩書きで人を評価する人を好きになれません。そもそも、世の中にホンモノの実力というものがあるのか、最近の僕は疑問に感じています。
 最近の経済ニュースでそれを痛感したのが三越伊勢丹の大阪撤退です。伊勢丹はファッションに関しては国内で最先端を走っている存在として評価されています。新宿本店などはほかの百貨店が参考にするほど素晴らしいお店といわれています。
 ですから、その実力がホンモノであるなら大阪でも成功していたはずです。しかし、全く通用しませんでした。ですから、ホンモノの実力とはなんなのか僕には疑問なのです。僕には、実力とは「めぐり合わせ」のように思えて仕方ありません。
 実力の定義についてはいつかまた述べるとして、スポーツ選手が精進を重ね成長し世界で戦えるレベルになることは素晴らしいことです。まさにスポーツ選手冥利に尽きるといえます。今年から田中将大投手が大リーグに行きましたが、その一番の理由は「もっと高いレベルで野球をやりたい」からのはずです。
 このときに大切なのは「自分がやっていること」を実感できるかどうかです。周りの大人に指示されるままに努力するのでは人間ではありません。機械と同じです。どんな高度なレベルであろうともスポーツをするのは人間でなければいけません。その前提が崩れるならドーピングをやろうが薬物によって肉体改造をしようが問題ないことになってしまいます。しかし、それでは人間同士の競争ではなく、人間と機械の競争になってしまいます。
 人間は機械になるために生まれてきたのではありません。哲学者でもない僕ですので、なんのために生まれてきたのかわかりませんが、少なくとも人間として人生を全うしたいと思っています。どこの世界に、機械として生きて自分の人生に満足を感じる人がいるでしょう。
 殺人マシーンとして生きてきたレオンは少女マチルダと出会うことによって人間性が芽生え生きる意味を感じるようになりました。レオンは最後は人間として死んでいきます。それでこそ、人間として生きてきた甲斐があるというものです。レオンが最後に手榴弾のピンを抜くときの微笑んだ表情から、レオンの幸せ感が伝わってきました。
 野球マシーンとして生きてきたオズマもまた最後は人間性を取り戻して死んでいきました。星飛雄馬がホンモノの実力を身につけるのは父・一徹から自立したときです。それまでは機械に過ぎませんでした。どんなに名誉な人生を送ろうが、多くの人から賞賛を浴びようが、マスコミから持ち上げられようが、人間として生きることが大切です。
 それにしても、巨人の星は奥が深い…。
 じゃ、また。




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