<国家>

pressココロ上




 思いもよらぬ展開で終結したように見えるPC遠隔操作事件ですが、僕的には片山被告の言動または警察の動きに首をかしげることが幾つかあります。
 一番の疑問は警察の動きです。報道によりますと、片山被告は保釈後に真犯人メールを装って送信したスマホを警察に押収されたことが、「告白した」直接の理由としているようです。つまり、このことは警察が保釈された片山被告をずっと尾行していたことを証明することになります。尾行していなければ「都内の荒川の河川敷に埋めたスマホ」を発見することなどできるはずもありません。
 僕が疑問なのは、そのあとの展開です。報道では、片山被告は佐藤弁護士に「告白する」までの一時期連絡がとれなくなったそうです。僕にはそこが一番疑問に思えるところで、スマホを埋めるところまで尾行していた警察がその後の片山被告の尾行を止めてしまった理由がわかりません。
 片山被告は「高尾山に行った」とか「電車に飛び込もう」と考えたとか、いろいろなことを話しているようですが、そうした行動を警察が追跡していなかったことが納得できません。なんども書きますが、川原にスマホを埋める現場までも尾行していたのに、その後を尾行しない理由がありません。常識的に考えて、その後も尾行するのが普通です。この点が、僕がこの事件全体を不可解に感じさせている点です。
 マスコミはどこもこの点について書いていませんが、記者の皆さんは誰も不思議に感じないのか、それが僕は不思議です。
 どこで読んだかは忘れましたが、今回の片山被告の行動および告白を、警察が面子を保つために「片山被告と取引をした」可能性を示唆している文を読みました。小説やドラマではありませんが、その可能性も否定できないと僕は思っていますが、考えすぎでしょうか。
 北海道・石狩市でも同じような展開の事件が発生しています。ガスボンベ爆発事件ですが、容疑者が逮捕されたあとも類似の事件が起きています。つまり、真犯人は別にいることを連想させますが、今の時点では警察は模倣犯罪と考えているようです。
 しかし、考えようによっては真犯人が「容疑者は犯人ではない」と訴えるために犯行に及んでいる可能性もあります。この事件も今後の報道を見守っていく必要を感じます。
 このような事件が続きますと、やはり冤罪ということに発想がいってしまいます。その理由は過去に冤罪が実際にあったからです。また、冤罪になる一歩手前で救われた郵便局不正事件の村木さんやオウム真理教事件の河野さんの話を読みますと、警察が自分たちの都合のいいような展開しか考えていないことがわかります。この両者にしてみましても、運よく真実が表面化したからよかったものの、ひとつ間違えば収監されていた可能性が高い事件でした。
 こうした事件が起きるたびに思うのは取調べの可視化です。検察や警察関係者は強く反対しているようですが、本当に取り調べに対して自信があるなら可視化を受け入れる度量を持つべきです。僕からしますと、取調べに「自信がない」「後ろめたい」気持ちの裏返しが可視化に反対させているように映ります。
 そもそも、冤罪が起きるのは検察や警察が権力を持っているからです。つまり国家が権力を持っていることですが、普通に暮らしている人ひとりの自由を奪うのですから強大な権力です。その権力を国家に与えているのは国民です。民主主義では一応そのようになっています。
 そして、国家が暴走しないように縛りをかけているのが憲法です。このような考えを立憲主義というそうで、こうしたことを初めて知ったとき「なるほど」と感激したことを思い出します。
 安倍首相になってから、集団的自衛権について考える機会が増えたように思います。僕的には普通の人があまりにイデオロギーに深入りし過ぎることに躊躇する気持ちがあります。宗教もそうですが、あまりに原理的になりすぎると争いが起きると考えるからです。なんでもそうですが、「ほどほど」が理想と僕は思っています。
 そんな僕は、安倍さんや石破さんが「国家の平和は神様から与えられるものではなく、自分たちで築くものだ」と声高に叫ぶことに対してうなづく気持ちもあります。ですが、やはり殺人には賛成できません。平和を築くためには結果的に戦争になる可能性もありますが、戦争とは殺人をすることです。
 ここで立ち止まって考える必要があるのは、国家です。国家の平和とはつまり国家を守ることということになりますが、国家が信頼に足る存在かというと疑問がつきます。
 今、クリミア東部では親ロシア派住民が氾濫を起こしていますが、この人たちにとってはクリミアは国家として歓迎できないもののようです。また、中国の新疆ウイグル自治区でも中国共産党がいうところのテロが連日おきていますが、この事件なども国家を受け入れたく考えの人が多いことを示しています。
 僕が思うに、国家といっても結局は国家の側で働いている人たちのことで、その人たちが国民全員を守るという保証はどこにもありません。身近な例でいいますと、5千万件の消えた年金が最もわかりすい例です。将来年金がもらえると信じて支払っていた保険料が実際はきちんと管理されていませんでした。本当なら国家がきちんと管理していなければいけない案件です。僕自身が当事者ですので痛切に関します。僕はいつの間にか年金番号が変わり以前の年金番号が消失してしまっていました。今から30年前のことを証明するのは不可能です。
 このように国家というものは100%信頼できるものではありません。昔、中国の文化大革命の時代を書いた「ワイルドスワン」という本を読んだことがありますが、時代に翻弄される知識人の人生が綴ってあります。時代に翻弄されたということは即ち国家に翻弄されたことと同義語です。また、ラストエンペラーで有名な溥儀氏も国家に翻弄されたひとりということもできます。
 このように国家というものはほんのちょっとしたことがきっかけで変わるもので、曖昧模糊としたものです。そのような国家のために命をかけて戦うことに諸手を挙げて賛成する気持ちにはなりません。これから戦うのは僕のようなおじさんではなく若い人たちなのですからなおさらです。
 最近は、日本を取り巻く外交状況がきな臭くなっていますので、ちょっと心配している今日この頃です。
 じゃ、また。




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