<逃げろ!>

pressココロ上




 川崎市の少年殺人事件に関して少しずつ詳細が明らかになっていますが、明らかになるにつれていったいどれが真実なのかわからなくなっていくように思います。このような展開になってきますと、芥川龍之介の「藪の中」を思い出してしまいますが、真実はどうであれ上村君が戻ってこないのに変わりはありません。
 僕は先週、上村君のお母様を批判する文章を書きましたが、その後のお母様のコメントを読みますと「ひとりで子供5人を育てている」状況からしますと僕には批判する資格ないと思うようになってきました。女性がひとりで子供5人を育てるのは並大抵の苦労ではありません。きっと一日をなんとかやり過ごすだけで精一杯だったはずです。そのような環境であったがゆえにさらに上村君がかわいそうでなりません。
 捜査が進むにつれて容疑者や近辺の人たちからはいろいろな話が出てくるとは思いますが、それでも真実は藪の中にあることになります。そして、上村君が殺害されたことだけが事実として残ります。このときに僕が考えるのは上村君がなんとかして殺害される状況に陥ることを避ける方法です。
 一言でいうなら「とにかく逃げろ!」です。「逃げ」という言葉には弱いイメージがありますし、卑怯な印象を感じます。ドラマなどを見ていても、「逃げる」よりは「戦いを挑む」ほうが勇ましい感じがして好まれるものです。しかし、人間は誰しもそれほど強い生き物ではありません。
 こんなことを思ったのは3月11日を迎えるに当たってマスコミが東日本大震災の特集を組んでいるからです。当日の東北地方が津波に襲われている映像を見ますと、人間という生き物がいかに弱い存在であるかを痛感させられます。自然にとっては人間という生き物は露の先ほどの存在でしかないようです。人間は、自然の脅威に対しては逃げるしか方法はありません。「立ち向かう」など無謀な選択です。自ら死を選ぶのと同じ行動です。
 「逃げる」ことによって生き延びたなら、またやり直すことができます。「逃げる」ことは決して弱さを示す行動ではありません。「やり直す」ことの言い換えです。
 上村君の事件で新たな事実が報じられている中で僕がうれしかったことがあります。それは上村君が暴力を振るわれたことに対して友人たちが抗議に向かっていることです。上村君の人望もあるのでしょうが、友人たちやその関係者が「見てみぬふり」をせずに行動を起こしていたことに胸が熱くなりました。
 そうであるだけに学校関係者の行動が残念でなりません。本気で上村君に対処している雰囲気が感じられません。確かに、学校の先生たちは昔にくらべやることが多く大変だとは思いますが、勉強以外にも子供たちに社会で生きていくための心構えなどを教えるのも仕事です。それを放棄しているように感じます。
 もし、先生たちが子供と向き合う時間が確保できないなら、それを補う方法を先生たち全員で工夫する努力をするべきです。ただ「忙しい」とか「時間がない」などの理由で子供たちとの接し方をセーブするのでしたら、そういう人は先生という職業に就くべきではありません。先生という職業にはそれほど重い責任が伴っていると思います。
 上村君が殺害される前に上村君を助けるタイミングは幾度かあったように思います。しかし、そのタイミングのときにたまたま助かる方向に進まなかったことが残念でなりません。
 例えば、友人たちがリーダー格の少年の自宅に抗議に行ったとき警察が出てきています。そのときにきちんと対処していたなら…。
 殺害される夜にお母様が外出を一度は止めているそうです。そのときにもっと強く引き止めていたなら…。
 中学生や高校生はまだ大人ではありません。どこかのタイミングできちんとした大人が親身になって対処していたなら今回の事件は防げたように思えてなりません。上村君はグループから抜けたがっていたようです。そのときに仲間うちだけでなく大人にも救いを求めていたならなぁと思ってしまいます。
 子供に限らず大人でも「逃げる」ことに対する恐怖心というのがあります。仕返しを恐れて行動に出られないのです。以前、XJAPANのTOSHIさんが宗教団体から洗脳されたときの事件が報じられたことがありました。TOSHIさんは立派な大人です。そんな大人でさえ「逃げる」ことは簡単ではありませんでした。中学生である上村君はなおさらだったでしょう。
 大人は表面的なことだけで納得するのではなく心の底にある本当の気持ちを汲み取る感性を持つ必要があります。少年が心の奥にしまっていた「逃げたい」という気持ちを察することが周りの大人に求められることです。
 じゃ、また。




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