<表現の自由>

pressココロ上




 「『表現の自由』とは、意見の異なる者の表現の自由を守ることである」
 この箴言は僕が30才を越えた頃に「なるほど!」と当時最も感銘を受けたものですが、この格言について考えさせられる出来事が先週ありました。それは1997年に惨殺な事件を起こした犯人が手記を出版したことです。俗に「酒鬼薔薇事件」といわれていましたが、わずか14才の少年が子供2人を殺害した事件で社会を揺るがせた事件でした。
 実は僕は記憶が錯綜していたのですが、この事件とその7~8年前に起きた宮崎勤という犯人が起こした事件がごちゃ混ぜになっていました。宮崎勤の事件も惨殺なものでしたが、酒鬼薔薇事件はまだ子供に属する年齢の少年が起こしたことが世間を驚かせました。
 酒鬼薔薇事件では事件のあとに両親が<「少年A」この子を生んで>という手記を出版していますが、今回は当の本人が書いていることが波紋を広げています。そして、2つの点において物議を醸しています。
 ひとつめは遺族の心情に対する配慮です。手記が出版されることに対して遺族が「出版をやめてほしいと」会見を開きました。やはり子供を殺された親にしてみますと、辛い悲しみに塩を塗り込まれるような気持ちになって当然です。そうした感情を無視しての出版でした。
 あとひとつはお金の問題です。犯罪を起こした人間が犯行に関する手記を出版をすることで印税という利益を得ることに対する批判が起きています。このようなことが現実になってしまいますと、お金をほしい人が犯罪を犯してその手記を出版して印税を得るというビジネスモデルができることになってしまいます。
 新聞によりますと、米国ではそうしたことが起きないように「サムの息子法」という法律があり、印税はすべて遺族へ支払われるようになっているそうです。こうした法律が日本でもできることに反対する人はいないのではないでしょうか。
 それに対して前者の問題点は簡単ではありません。遺族の気持ちも十分に理解できますが、「表現の自由」が侵されることになりかねないからです。しかし、だからといって表現によって「他人を傷つけてよい」いうこともありません。その線引きはとても難しいものがあります。
 今回の出版に関して幻冬舎の見城徹社長が関わっていることが週刊誌で報じられました。記事によりますと、見城氏が生活費の面倒もみてさらに出版社も紹介したそうです。そうなりますと、なぜ見城氏が自社で出版しなかったのか不思議に思えますが、今回の出版に関する見城氏の果たした役割は少なくないようです。
 見城氏は自著の「編集者という病」という本のキャッチコピーで「顰蹙は金を出してでも買え」と書いています。このような信条の持ち主である見城氏ですので顰蹙を買うことに臆して出版を見送ったとは思えません。
 見城氏といいますと、やはり尾崎豊さんを思い出します。先の本の中には芸能界で孤立し苦しんでいた尾崎さんをサポートするようすが事細かに書いてありました。正直な感想をいいますと、本当にそこまで深入りしてサポートしたのかと疑いの気持ちも沸き起こりました。それほど尋常ではないサポートぶりだったからです。
 また郷ひろみさんの「ダディ」を出版したときの話も印象に残っています。なんと初版50万部は常識外の発想で当時話題になりました。そのほかにも作家の村上龍氏とテニス三昧をしていた話も有名ですが、全体的にいえることは多くの有名人と親しい関係を築いていることです。しかもその範囲の広さも桁外れです。もしかしたなら見城徹という人が10人くらいいるのではないか、と思えるほどです。
 これほどいろいろな分野に人脈を広げている見城氏であるだけに今回の出版を止めることもできたはずです。自社で出版しないのなら他社へ紹介することも「自粛する」という選択もあったはずです。それをしなかったのは「表現の自由」と関係があるのかもしれません。「顰蹙を買う」うんぬんは別にして出版を見合わせることは「表現の自由」を侵すことにほかなりません。見城氏はそれを危惧したのかもしれません。
 出版と表現の自由の関係について考えるとき、僕は芥川賞作家・柳美里氏『石に泳ぐ魚』を思い出します。小説のモデルとなった女性が「プライバシーを侵害された」と裁判に訴えた事件ですが、最高裁判所で原告の訴えが認められ出版差止めと慰謝料130万円の支払いが確定しました。
 僕は特に肩入れしている宗教もイデオロギーもありません。自分ではごくごく普通の一般人と思っています。その僕が考える「表現の自由」が認められる範囲は冒頭の箴言に行き着きます。もう一度書きます。
「『表現の自由』とは、意見の異なる者の表現の自由を守ることである」
 この言葉から想像できるのは、「意見の異なる者」の人数が少ないことです。言葉を変えるなら「立場の弱い人」です。
 先週は、自民党の会合で「沖縄の左翼系の新聞はつぶしたほうがよい」という発言があったと報じられ、その会合の責任者が更迭されました。沖縄は政府に比べますと、圧倒的に弱い立場にある人たちです。その人たちの表現の自由を侵すような発言は許されるものではありません。
 人によっては、沖縄の新聞が主張する意見が政府という権力者を傷つけることなると指摘する人がいるかもしれません。だからといって、「表現の自由」を自粛すべきだと主張するのは間違いです。
 「表現の自由」を自粛する必要があるのは、表現によって傷つけられる人が弱者の場合だけと僕は考えます。今回の犯人による手記出版のケースは傷を負う人が遺族という立場の人です。僕は、今回の出版は自粛するのが正しい選択だったと考えます。
 じゃ、また。




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする