<ざわわ…ざわわ>

pressココロ上




 今年もまたこの季節がやってまいりました。僕は毎年この時期に、コラムで戦争について書いていますが、今年も書きます。そして、今年もこの言葉から書き始めます。明石家さんまさんが「さとうきび畑の唄」の中で叫んでいた言葉です。
「わいは、人を殺すために生まれてきたんやないでー!」
 そして、僕がいつまでも脳裏に刻み込まれているドラマの一場面があります。「私は貝になりたい」で映し出されたフランキー堺さん演ずる清水豊松の「なんで僕が…」という表情です。豊松は戦後、普通に市井で暮らす一市民として床屋さんを営んでいました。そこに突然に特殊警察がやってきてBC級戦犯として連行される場面です。強引に両腕を抱えられる中、必死に家族のほうを振り向くフランキーさんの表情が忘れられません。上司の命令で捕虜を殺害した罪です…。
 世の中の普通の感覚の人で「戦争はいいことだ」という人はいません。イスラム国などのようなテロ組織でない限り、普通の人は誰しも平和を好みます。しかし、世の中から戦争はなくなりません。戦争という言葉には、国家間の戦いというイメージがありますが、規模の小さな戦闘という意味では民族紛争もテロとの戦いも戦争に含まれます。シンプルに考えるなら「殺し合い」はすべて戦争です。
 もし強盗に襲われたなら警察に助けを求めることができます。しかし、それが可能なのは警察が整備されているからです。世界全体で考えるとき、残念ながら警察は存在しません。では、警察がない状況で強盗に襲われたときどうするか。…自らが戦うしか術はありません。そして、それは戦争です。
 自民党の若手議員が国会前でデモを行っている学生集団に対して
「学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。」
とツイートをして炎上しました。
 この若手議員の考えにも一理があると思いますが、「戦争に行きたくない」という主張も立派な一理です。なぜなら、戦争に行ったなら自分が殺される可能性もありますが、自分が殺す可能性もあるからです。
「わいは人を殺すために生まれてきたんやないでー!」
 このような議論のときに忘れてならないのは、「実際に戦場に行く人は誰か」という視点です。単に作戦を考えたり命令をするだけの立場にいる人の意見は参考にはなりません。なぜなら命の危険が伴う戦場に行かないのですから、戦争の持つ残虐性を肌で感じることがないからです。自分が虫けらにも悪魔にもなる戦場を体験することがないのです。そのような人たちが戦争について正しい判断をできる保証はどこにもありません。もしかしたなら、ゲーム感覚で戦争を捉えている可能性さえあります。
 先の自民党の若手議員も自分が戦場に行くことは想定せずに自分の主張を述べているのでしょう。そうでなければ「戦争に行きたくないこと」を「利己的考え」とか「利己的個人主義」などと切り捨てることはないはずです。その点が炎上した理由だと思いますが、当人が理解できているかは疑問です。
 最近の安倍首相の国会での対応を見ていますと、かなり「乱暴」という印象を受けます。言葉遣いや態度などからは「傲慢」という雰囲気も漂ってきます。安倍首相はことあるごとに「丁寧に説明する」と話していますが、実際の行動はそれとはかけ離れているように思います。
 そのような今の安倍首相の振る舞いを見ていますと、小泉首相の手法を真似ているように思えてなりません。それまで一国の総理が国会で乱暴な答弁をすることなどなかったように思います。安倍首相は前回の首相のときは年齢も若く経験もなく小泉首相の手法を真似る余裕がありませんでした。しかし、2度目である今回は周到な準備期間があったこともあり精神的余裕があります。そうしたことが今の安倍首相の「乱暴」で「傲慢」な対応を可能にしているように思います。
 あとひとつ忘れてならないのは、昨年12月の選挙での大勝です。あの結果がなかったなら現在の安倍首相の対応はなかったはずです。その意味で、現在の安倍首相の振る舞いの責任は国民にもあるといわざるを得ません。あの低投票率がさせた選挙結果です。
 安倍首相を批判している皆様方、どうか次回の選挙まで今の気持ちを忘れないでください。僕には安倍首相の政権運営方法は、国民をみくびっているように映ります。政権が国民の気持ちと離れた方向に進むなら、それを修正することができるのが民主主義です。
 じゃ、また。




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