<あまちゃん>

pressココロ上




 年末のことですが、80歳を超えている女性の方とお話をする機会がありました。年配の方はお話をするのが好きな人が多いですが、その方もお話をしだすと止まらないタイプの人のようでした。
 たまたま話題が出身地になり、その方が岩手県の宮城県寄りの出身地であることがわかりました。そうしますと、営業の経験があります僕としましてはお話を膨らませることを考えます。やはり東北出身となりますと大震災のこととかNHK朝の連ドラの「あまちゃん」に話題を振ることを考えます。僕の予想では大震災のほうにお話が展開するかと思っていましたが、アニハカランヤ「あまちゃん」のほうに話が展開しました。しかも思わぬ視点で…。
 「あまちゃん」の中では「海女さん」という職業を古来から伝わる伝統的な仕事として捉えていたように思います。ですから、主人公が海女さんの技術を習得するまでの過程もドラマになっている場面もありました。それは僕のような視聴者からしますと、技能職の人が素人から一人前になるための修行のようにも映りました。つまり、海女さんとは一種の職人ということになります。
 しかし、年配の女性は声を潜めて話してくれました。
「私の時代ではね」と断りを入れていましたが、「地元では、生活のために仕方なく就く仕事なのよ」と教えてくれました。
 僕は地元民ではありませんし、宮城県出身の親しい人もいませんのでこの話が正しいかどうかはわかりません。しかし、納得はできる理由でした。
 なぜ「生活のために仕方なく」なのかといいますと、大勢の人の前で裸に近い格好で働く仕事だからです。年配の女性曰く「女の人が普通はそんな格好で仕事なんかできないでしょ」。
 確かに、言われてみますとその説明にはうなづけるものがあります。今とは違い、昔は女の人が肌を見せることを「みっともない」と認識していた時代です。その時代に女性が潜水スーツや専用の水着ではなく薄い着物を身につけただけの格好で働くのです。「みっともない」範疇の仕事と思われても仕方ありません。
 このコラムを書くにあたりネットで調べましたところ、あるテレビ番組で「昔の海女さんは素っ裸でもぐっていた」と紹介していたそうです。やはり、普通の女性が就く職業ではなかったようです。
 それはともかく年配の女性はそうした時代を経験していましたので余計に海女さんという職業を特別視する意識があったのでしょう。念のために断っておきますが、この女性の話し方には海女さんを蔑視や差別しているニュアンスは全くなかったことを付け加えておきます。
 「あまちゃん」は僕の好きなテレビ番組のひとつで楽しみに見ていましたが、僕とこの女性では見方が違っていたんだろうな、と想像しました。ものごとに対する感想は、当人の知識や育った背景が大きく関係してくることを感じました。
 先週、甘利経済再生担当大臣が閣僚を辞任しましたが、僕からしますと「嵌められた」という思いがしなくもありません。このような感想を持つのは僕だけではないと思いますが、普通に考えて現金授受の際の録音などが証拠として残っているのは不自然です。最初から「貶める」目的があったとしか思えません。
 仮にそうだったとしても、やはり残念でなりません。甘利大臣は僕が好きな政治家のひとりでしたのでこのような拙劣な悪事で表舞台から降りざるをえなくなったのは考えが「甘利」だったことになります。(*つまらないおやじギャグで申し訳ありません)
 しかし、「嵌められた」のだととしても政治家であるならばそのくらいの危険性は常に持っている必要があるはずです。報道では秘書に主な責任があるように報じていますが、自らも会見で認めているように監督責任は免れません。
 それにしても政治家にありがちな犯罪です。そのような犯罪に貶められるのは感覚が一般の人とずれているからです。他人から多大な金銭をもらうことに慣れているからです。感覚が麻痺しているからです。
 以前話題になりましたが、ある映画監督が地方の補欠選挙に立候補する候補者のドキュメント映画を製作したことがあります。確か題名はズバリ「選挙!」だったように記憶していますが、選挙の戦いぶりを追った映画でした。
 一般人の感覚では、選挙で当選するためには自分の政策を国民や住民に訴えることが重要な要因のように思います。しかし、実際に選挙で大切なのは政策の主張などよりも自分の名前を「売ること」もっと根源的にいうなら「知ってもらること」、さらに言うなら「投票用紙に名前を書いてもらうこと」が大切なことのようでした。
 いくら国民や住民や社会を幸せにする主張や政策を持っていたとしても政治家になれなければ意味がありません。そして、政治家になるためには主張や政策よりも選挙に勝利する方策を身に着けていることが大切です。
 結局このことが教えているのは政治家は「選挙に勝利する能力」と「政治家としての能力」という2つの能力を持っていることが必要だということです。ひとつだけでは政治家としての職業を務めることができません。
 そして、あとひとつ重要なことは普通の感覚を持ち続けるという意識です。政治家がお金に関して問題を起こすのはこの普通人の感覚が失われるからです。甘利大臣が「嵌められた」のもこの感覚がなくなっていたからです。
 僕の想像では、政治家のみなさんの中には「一般人と政治家は感覚が違っていても仕方ない」と思っている方がいるように思います。しかし、そういう方は必ずや「自分は甘かった」と反省する機会に遭遇するでしょう。いえいえ、遭遇してもらわなくてはいけません。
 今週の題名は「あまちゃん」でした。
 じゃ、また。




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