<保険>

pressココロ上




 読者の中にも「気になっていた」人が多かったのではないでしょうか。先週、認知症を患っている91歳男性の賠償責任の有無を問う最高裁の判決がありました。この裁判は認知症の男性が徘徊をして列車にはねられ死亡したのですが、それにより損失を被ったJR東海が男性の妻(85歳)と長男(65歳)を相手に損害賠償を求めたものでした。一審二審は損害賠償を認めたものでしたが、被告側が上訴をして最高裁まで進んだ裁判でした。
 結果は「賠償責任はない」でした。たぶん最も平均的な普通の人の感覚に沿う判決だったように思います。なにしろ奥様も高齢ですしご長男も別居していたのですから、そのような状況で家族に監督責任を負わせるのは無理というものです。
 僕はこのニュースを聞いたときにJR側は本気で賠償を求めたのか、気になりました。JR東海という企業も組織内で働いている人はごく普通の同じ人間です。ほかの人と同じように生活を営んでいます。間違いなく認知症の方を介護している人の大変さをわかっているはずです。それでも敢えて裁判を起こしたのですから、僕は世の中に一石を投じる意図があったのではないかと思っています。
 もし最高裁の判決が違っていたなら困惑するどころか恐怖心さえ抱く人たちが大勢生まれていたはずです。誰が考えても介護する人が徘徊する人の行動について100%責任を負うことは不可能です。一日中傍につきっきりでいるか、紐などで縛っておくしか方法はありません。どちらも現実的はありません。
 しかし、それでは加害について誰が責任を負うのかという問題が起きますが、これはもう「社会全体で」というしか答えはありません。なにしろ10年後には3人に1人は65歳以上の高齢者なのですから、個人の問題ではなくなってきます。
 以前このコラムでも取り上げましたが、子供の自転車事故の賠償責任を問う裁判が注目を集めたことがあります。まだまだ十分とはいえませんが、以前に比べますと自転車の賠償責任に関する意識が世の中に浸透しているように思います。ネットなどでも自転車の賠償責任保険の広告を見かけることが多くなりましたし、コンビニなどでも目に付くことが増えてきました。
 その契機になったのがこの裁判です。小学生の子供が自転車で年配の女性にケガをさせ、その際に親に損害賠償を求めた裁判でした。このときも大々的に報じられたのですが、間違いなく自転車の交通安全について啓蒙する効果がありました。ただし、この裁判に関しては「一石を投じる」というよりは単に保険会社が自らの損失を転嫁させたかっただけのような気がします。それはともかく自転車の賠償責任を世の中に知らしめたのは間違いありません。
 このときのコラムでも紹介しましたが、損害保険には個人賠償責任保険という保険があります。これは生活を営んでいる中で他人に損失を与えたときに補償する保険ですが、自転車による賠償だけではなく、今回の徘徊のようなケースでも適用されます。つまり、この保険に加入していますと、徘徊老人が他人に損害を与えたときでも経済的には負担をせずに済むことになります。
 僕のサイトでは保険についても解説していますが、その中で有意義な保険として個人賠償責任保険をお勧めしています。この保険は保険料が年間千円~二千円ほどで一億円の補償をするものですのでとても役に立ちます。保険については無関心の人が多いですが、知らない間にこの保険に加入している人が結構います。理由は、火災保険や傷害保険の特約として加入しているケースがあるからです。
 数週間前のことですが、新聞に「水害に対する保険に加入している割合が3割くらいしかない」と書かれていました。しかし、僕にはどうも腑に落ちませんでした。なぜなら、火災保険の普及率が約8割もあるからです。
 この文章を読んで「腑に落ちない」人がいたかもしれません。火災保険と水害になんのつながりもないもないように思えるからです。ところが、違うのです。ほとんどの火災保険では水害も補償されます。一昔前と違い、現在の保険業界は多種多様の保険が販売されていますので「すべての火災保険」とは言い切ることはできませんが、基本的な火災保険には補償内容に水害も含まれているのが一般的です。ですから、水害に対する保険加入率が3割という記事が腑に落ちなかったのです。
 3月といいますと、やはり東日本大震災が思い出されます。5年という区切りの年ですのでマスコミなどでも取り上げていますが、復興はまだまだ道半ばです。
 先月ですが、僕が好きなテレビ番組「鶴瓶の家族に乾杯」も東北を訪れていました。その番組の中でニュースではもちろんのこと、一般的な情報番組でも伝えないような現地の人のお話を知りました。
 この番組は鶴瓶さんが訪問地の人たちの生活の声を聞くのが魅力ですが、この放送では地元の人たちの人間関係の難しさが伝わってきました。
 東日本大震災は津波の被害が大きかったことが特徴です。テレビ画面に写し出された一軒家さえものが軽々とが流されていく映像には本当に驚かされました。鶴瓶さんは現地の人たちからそのときの様子を聞いていたのですが、その中で被害に遭った人と被害を免れた人の間に生まれた溝についても話していました。
 津波が家の前まで来て、間一髪助かった人の話は本当に鬼気迫るものがありました。しかし、悲しいことにその「難を逃れたこと」がその後の不幸を招いたそうです
 その不幸とは家の前を通る人たちの言葉を聞くことによって心が落ち込むことでした。家の前を通る人たちは以前と変わらずに建っている家を見て口々に「いいなぁ、うらやましいなぁ」というような言葉を発したそうです。「難を逃れた」人にしてみますと、通りすがりの人たちが発するそうした一言一言が罪悪感となって心の中に溜まっていったようです。難を逃れた中年の女性がその心の苦しさをトツトツと話していました。
 たぶん「うらやましい」と口にした人たちは決して悪気があったわけではないでしょう。正直な気持ちがつい口から出たのだと思います。しかし、言われたほうにしてみますと、その言葉が心の負担になっているようでした。本当に人の心とは、また人と人との関係とは難しいものです。
 先にほとんどの火災保険では水害でも保険が支払われると書きました。しかし、地震が起きたときに起きた災害には保険は適用されません。理由は、災害が大きすぎて保険会社が支払いきれないからです。ですから、地震保険という保険に別途加入する必要があります。しかし、地震保険の難点は保険料がとても高いことです。それがネックとなり地震保険の加入率は3割くらいと低迷しています。
 テレビで地震保険の広告が放映されていますが、これは政府が地震保険の加入率を上げようとしているからです。広告では「地震保険に加入していたから助かった」と男性が語っていますが、加入する割合が中途半端な数字であるなら真の意味で「助かった」とはならないような気がします。なぜなら、地震保険に加入していなかった人たちが「いいなぁ。うらやましいなぁ」とつぶやき、その言葉が助かった人たちの心の負担となるからです。
 本当にこの世は難しい…。人の心をケアする保険があればいいのに…。
 じゃまた。




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