<感動ポルノ>

pressココロ上




 僕が、最近最も関心を持った言葉は「感動ポルノ」という言葉です。ご存知の方も多いかもしれませんが、日本テレビの24時間テレビに対抗して放映された裏番組の『バリバラ』(Eテレ)が発端です。この言葉は車いす生活を送りながらもコメディアンまたはジャーナリストとして活躍していたのステラ・ヤングさんという方が講演で使った言葉だそうです。
 この言葉の解説としては「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって(http://synodos.jp/info/17888)がわかりやすいので参考になります。
 ステラさんは講演のスピーチが素晴らしくて注目されるようになったのですが、その講演の日本語版のサイトも紹介しておきます。
Logmi(http://logmi.jp/34434)
 ステラさんは残念ながら2014年12月にお亡くなりになっていますが、生涯をかけて「単刀直入な切り口で障害者問題に対する社会の理解を啓発してきた。同時に時には挑発的な語り口で聴衆をわかせ、笑わせながら障害者をかわいそうな人としてみるのではなく、対等な人間として見ることを気づかせていた。」
(http://nichigopress.jp/ausnews/entertainment/84461/より引用)そうです。
 解説によりますと、原語は「inspiration porn」だそうですが、これを「感動ポルノ」と訳した日本語訳も秀逸です。もし普通に直訳していたならこれほど注目されなかったかもしれません。
 感動ポルノの問題点は
「健常者が良い気分になれるように、障害者をネガティブな存在としてモノ扱いしています。自分の抱えている問題が大した困難ではないと、違う角度から見られるようにするためです。」
 に尽きると思います。
 感動ポルノに限らず、僕が最近テレビに興味を持たなくなったのは無理やりな演出があまりに「過ぎる」からです。テレビ局は最初に企画を立て筋書きを決めるとその通りになるように番組を制作しているように感じます。
 僕は昨年ラーメン店の失敗を扱う番組で1時間ほどの電話取材を受けましたが、質問の内容も核心を突くようなものはなく、また放映された番組を見ましたが、バラエティ番組としての落としどころに納まるように作られている印象を受けました。あの番組を見た視聴者の人たちはあの内容を真実と捉えてしまうと思うと納得できないものがありました。
 少し前にこのコラムで取り上げましたが、同じ局の勝ち抜きを争う番組で実際とは異なる結果を放映した事件がありました。出場者のひとりをCGで消すというあまりに悪質なやり方でしたが、このときはほかの出演者の証言などもありましたのテレビ局は「演出」を認め謝罪を表明せざるを得ない状況に追い込まれました。しかし、僕からしますと「演出」ではなく「捏造」です。他局ですが、数年前に捏造が発覚して番組が打ち切りになった「あるある立事典」の事件があったあともこのような捏造が行われていたことが残念でなりません。
 マンションが傾いた事件について新聞に記事が載っていました。その中で印象に残っているのが管理組合の弁護士が「この事件が解決に向かっているのはマスコミのおかげ」と話していることでした。このときは主に新聞ですが、マスコミがこの問題を報じ続けてくれたことが不動産会社側の譲歩を引き出すことができたそうです。大企業であろうとも注目が集まっている中ではごり押しをできるものではありません。一歩間違えるなら批判が集中し企業の存続にも影響を与えかねません。社会の注目を集めることは大きな効果があります。
 富山市では市議が相次いで辞職をしています。理由は政務活動費を不正に請求していたからですが、この事件もマスコミが報じなければ表に出ることもなかったように思います。不正請求を行っていた議員は与党野党を問わずですから、議会が不正を追及することは不可能だったでしょう。その意味で言いますと、マスコミの意義はとても大きなものがあります。
 NHKの貧困問題を扱った番組が視聴者の反発を招き、炎上にまで発展した事件がありました。炎上したきっかけは番組内に貧困の当事者として登場した女子高校生の生活ぶりが貧困でないと判断されたことです。映像に映った部屋の様子に敏感に反応した視聴者がネットをいろいろと検索して貧困でない実態を晒すことになりました。
 貧困に対する判断は人それぞれでしょうが、僕からしますとやはり好きなアーティストのCDを買ったりコンサートに行ったりする人は貧困の範疇には入らないと思います。先ほど紹介したバラエティ番組と同じように、この番組でも製作者側が意図する内容になるように安易に番組を作った雰囲気を感じます。それを象徴しているのが批判を浴びることになった貧困女子高生です。もっと時間をかけて丁寧に探すなら本当の貧困女子高生が見つかったはずです。手抜きの印象を持ったのは僕だけではないでしょう。
 障がい者問題を感動ポルノにするかどうかはマスコミの姿勢にかかっています。マスコミがなにかしらの理由で中立な立ち位置に立たないとき、事実はゆがめられ誤った風潮が醸し出され、または見当違いな風景が生まれる可能性もあります。
 なにかしらの理由には、もしかすると政治的な圧迫があるかもしれませんし、予算とか時間またはモチベーションといった精神的な部分の製作者側の都合があるかもしれません。しかし、どんな理由であろうともそれは言い訳にはなりません。マスコミの伝えることは世の中の人の心に刻み込まれる運命があるからです。風評被害がその最たる例です。
 このようにマスコミは自らの力の大きさを自覚する義務がありますが、同様に受ける側もマスコミの姿勢に敏感である感性を持っている必要があります。その感性を磨くために常に自らを省みる謙虚な気持ちが大切です。なぜなら、
「私たちが障害者の姿に感動しているのは、心のどこかで彼らを見下しているからかもしれません」(Logmiより引用)
 からです。
 じゃ、また。




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする