<引き際>

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 リオでパラリンピックも終了し、スポーツの祭典が終わりました。スポーツの素晴らしさは肉体を駆使して頑張っている姿が見ている人に感動を与えるところです。肉体というシンプルなものだけで戦う姿が人々の心を揺さぶるのだと思います。
 しかし、今大会は始まる前からドーピング問題で物議を醸していました。ドーピング問題は肉体というシンプルなもので戦うことを台無しにする行為です。簡単に言ってしまうなら、肉体をロボット化することで人間の機能を上げることです。これでは見る人の心を感動させることはできません。
 ドーピングは言うまでもありませんが、パラリンピックの記事で気になることがありました。それは金メダルを獲得できなかった選手が婉曲的はありますが、道具や器具の性能で勝敗が決まってしまうことを示唆していたことです。表現が婉曲的だったこともありますし、マスコミも大々的には報じませんので大きな問題にはなりませんでしたが、パラリンピックのあり方が問われる問題であることは確かなように思います。
 例えば、車椅子を使う競技の場合、車椅子の製作に一千万円以上をつぎ込むことができる選手と100万円くらいしかかけられない選手では運動能力の優劣だけではない要素が影響するのは当然です。このような不公平な状況で戦うことは健常者がドーピングで優勝することと同じになってしまいます。なにかしらの対応が必要な時期になってきています。
 人々がスポーツに感動するのは「努力する姿」が素晴らしいからです。これはスポーツに限らず勉強でも言えます。勉強の世界でも「東大卒」が一目置かれるのは「必死に勉強したこと」が想像できるからです。もちろん元々持っている才能のおかげで「東大卒」になる人もいますが、それはスポーツの世界でも同じです。才能のない人はスポーツでも頂点に立つことはできません。
 野球界のレジェンドである野村克也氏が「プロ野球にはそれまでエースで四番だった人が集まってくる」と話していますが、才能がある人の集まりの中で更に才能がある人が努力をすることでようやっと一流の選手になれます。反対に言うなら、それまでエースで四番だった人がさらにレベルの高い世界では平凡になり、違う世界に方向転換を余儀なくされていることになります。
 子供の頃に読んだ「巨人の星」は僕にいろいろなことを教えてくれましたが、主人公の飛雄馬が2軍時代の話が記憶に残っています。2軍という境遇は1軍を目指して若い選手が目の色を変えて必死に努力しなければいけない世界ですが、2軍生活に慣れてしまう選手がいるそうです。
 ある意味、1軍に上がりプレッシャーの中で結果だけを求められる苦しさがない分、楽に感じることがあるかもしれません。努力をしているように見せかけて心の中では2軍という安住の地にいることに満足している選手です。「巨人の星」は子供向けの漫画でしたが、人生について考えさせる高度なことも教えていました。
 少し前に巨人の若手選手が賭博で事件を起こしましたが、この事件が報じられたとき、僕はすぐに巨人の星のこの話が思い浮かびました。2軍を安住の地と感じるようになってしまっていたことがこの事件の根源にあるように思います。1軍を目指すという緊張感を持って日々を励んでいたなら賭博などに手を染めることはなかったはずです。
 先に野村氏の言葉で紹介しましたようにプロ野球には「エースで四番だった」選手が集まってきますので、才能の壁やケガなどで平凡な選手になってしまう選手が否応なく出てきます。僕は毎年年末に放映されるプロ野球界から去らざるを得なくなった選手を取り上げる番組を見ていますが、どの時点で「あきらめる」かはとても難しい問題です。
 先週、「ハマの番長」ことDeNAの三浦大輔投手が引退を発表しましたが、プロ野球選手の辞め時はとても難しいものがあります。三浦選手は球団から好かれていましたので進退を自分で決めることができましたが、2軍の選手となりますと一方的に契約を解除されておしまいです。そのときに選手として続けるのか違う道に進むのか悩むところです。先に年末のテレビ番組ではその葛藤をドキュメンタリー調で放映していました。
 引き際が難しいのは「あと少し頑張ればもしかしたら結果が出るかも」と思うからです。実際、先のことは人間は誰もわかりません。昔から言われるように「神のみぞ知る」の世界です。ですから、自分に期待する部分が強い人ほど「あと少し」と思ってしまうものです。しかし、運よく結果が出たならいいですが、それはほんのわずかの確率です。しかし、ゼロではありません。そこが自分に期待を持たせてしまう悩ましいところです。
 今から20年以上前のことですが、ラーメン店を営んでいたときたまに飛び込み営業の新人さんが来ました。時期は4月~5月頃が多かったでしょうか。新社会人の人たちが一斉に営業の修行に出ていたのでした。
 だいたいパターンは決まっていてお店の社判を押してもらうものでした。つまり1日に飛び込み営業をするノルマがあり、それを達成するための訪問でした。
 今は本屋さんに行きましても飛び込み営業関連の本はあまり見かけません。たぶん昔ほど飛び込み営業を取り入れている企業が減ってきているのでしょう。求人広告などを読みましても営業募集でありながら「飛び込み営業一切なし」と書いてある広告が多いように思います。
 しかし、昔は「営業の基本は飛び込みから」が主流でしたから営業やセールスに関連する書籍には「飛び込み営業のコツ」などを伝授した本がたくさんありました。そうした本に共通しているのが「あきらめない」ことでした。
 例えば、「100軒飛び込んでダメだったとしても、次の101軒目で契約が取れるかもしれない」という叱咤激励の文章をよく見かけました。本を出すのは営業マンとして成功した人ばかりですからこのように根性を前面に出して結果を残してきた人たちです。
 ここが本当に難しいところで、確かに101軒目で成約することもないことはないでしょう。しかし、次の101軒目に必ず契約が取れるとは限りません。
 日銀の黒田総裁が21日の金融政策決定会合を受けて記者会見を行いました。結局、緩和策を継続するようですが、この金融緩和策もいつまで継続していいのか悩ましいところです。黒田総裁としては金融緩和をやめることは自らのミスを認めることになりますので簡単に政策を変更することはできません。しかし、最初に示していた2年で2%の物価上昇という目標はすでに過ぎています。これも引き際の難しさを表しています。
 同じように引き際の難しさを表しているのが高速増殖炉「もんじゅ」です。これなどは「引き際」などという言葉では言い表せないほど複雑なサイクルの中に組み込まれています。これまで幾度も廃炉の方向へ舵を切りかけてはいろいろな抵抗に遭い、結局止めることができずに現在に至っています。
 普通の感覚で考えるなら、1983年の原子炉設置許可から33年、94年の初臨界から22年の間、わずか250日しか実働しておらず、しかも1兆2000億円も予算が投じられてきたのですからやめるのが常識的な判断です。日銀も無責任な気がしますが、「もんじゅ」はさらにその上を行きます。しかし、原子力村の人たちはこの期に及んでまだ研究の余地を残そうと画策しているようですが、いったい誰が責任を負うつもりなのでしょうか。
 僕から言わせますと、ここまできますと博打と同じです。パチンコでさえずっと打ち続けていたならいつかは「出る」ことがあるかもしれません。競馬でも外れてばかりいてもずっと続けていたならいつかは「当たり馬券」を買えるかもしれません。しかし、「出る」ことになっても「当たり馬券」を掴んでもそれまでにつぎ込んだお金を回収するまでは儲からないのが博打の恐ろしさです。
 株は博打ではありませんが、似たような状況になることは頻繁にあります。株価が下がり続けてもいつか反転するかもしれませんし、なにかのきっかけで反転どころかそれまでの最高値になることもあり得るのが株です。しかし、先のことは「神のみぞ知る」です。
 株の世界では一時は大資産家になっても一気に奈落の底に落ちるのはよく聞く話です。株の解説本などを読みますと、必ず書いてあるのが「損切り」です。どこかで決断をすることの重要性を説いています。
 政府もようやっと「損切り」をする決断ができたようですが、これが可能なのも、実は、安倍首相の一強状態がなせる業でもあるように思っています。基盤の弱い政権なら抵抗勢力に押し返された可能性があるからです。なにが幸いするかわからないのも「神のみぞ知る」です。
 じゃ、また。




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