<タフでなければ生きていけない>

pressココロ上




 先月、今月ともにそれぞれ東日本大震災、熊本大震災といった大規模な自然災害が起きた月でした。マスコミの特徴は災害などがありますと節目のときは派手に報道することですので、先月今月と2ケ月続けて自然災害について報道していました。
 ニュース映像などを見ていますとどちらの地域もまだ復興とは程遠い状況のようでした。東日本大震災は地震以外に原子力発電所の被害もありましたので6年も過ぎたにも関わらずまだ道半ばどころか計画の方向さえ完全に決まっていない状況のように感じます。熊本に関しても1年過ぎたにも関わらずまだ手付かずの地域もありました。それにしても被災状況を画面を通してみますと自然の猛威と脅威を感じてしまいます。
 昨日は晩御飯の時間にNHKで放映していました「プラネットアース」という番組を見ました。いつもはタモリさんの番組をやっているのですが、昨日は特番だったようです。僕は日曜の晩御飯の時間はやはりNHKの「ダーウィンが来た!」を見ているのですが、同じ系統の番組でした。自然界に生きる動物たちの生態を丁寧に紹介している番組です。
 昨日は「高い山」で生き抜いている動物たちを取り上げていたのですが、ナレーションは「高山は動物が生きるのに最も過酷な場所」と紹介していました。理由として、まず挙げられるのは食べ物の確保が困難なことです。高山では簡単に食べ物が手に入りません。ですから、数少ない動物の死骸などがあったときは奪い合いの戦いが起こります。自然界では弱肉強食が摂理ですので戦いに負けたものは死が待っているだけです。
 次の理由は基本的に気温が低いことです。ですから、活動できる期間も短いですし、雪崩など危険な状況が常にあります。そして、平地ではなく山ですので崖があったりなど環境がすべて危険と隣り合わせの状況になっています。
 これら以外にもたくさんの過酷な条件がそろっているのが「高い山」です。そこで生き延びるのは並大抵のことではありません。自然の恐さを感じさせてくれる番組でした。
 基本的に人間は自然の力に比べて無力です。どれほど予防対策を取ろうとも完ぺきに防ぐことは不可能です。そうなりますと、人間にできることは災害が起きたあとにできるだけ早く復興をすることです。事後に備えることになりますが、それも人間の知恵のひとつです。
 毎年9月頃になりますと火災保険に加入している人には保険会社から地震保険の加入を勧める案内が来るはずです。これは政府が保険会社に働きかけて行っているそうですが、この地震保険ができたのも1964年に起きた新潟地震がきっかけでした。普通の火災保険では地震は保険の対象から外されているからです。地震が起きますと被害が甚大ですから民間会社では対応できません。ですから、国が保険者になるしか方法はありません。ですが、地震保険の最大の欠点は保険料が高いことです。これがネックになっていますので地震保険の加入率は30%にも満たない(2015年)数字です。
 地震保険の加入率がこのように低い中で被災した人々に対するインタビューや復興の様子を見ていて感じることがあります。それは「自分だけが地震保険で再建を果たせても意味がないのではないか」ということです。「周りの家々が再建できない中で自分の住宅だけが再建できても心から喜べない」からです。。
 実は、昨年の東日本大震災に関するテレビ番組で観たのですが、運よく津波の被害に遭わなくて済んだ家の人が「家に居づらい」気持ちを吐露していました。理由は、家の前の通りすがりの人たちが「羨ましい」、さらにもう一歩進めるなら「悔しい」「憎らしい」という感情が含まれた「いいなぁ、この家、津波で流されなくて」という言葉をつぶやくからでした。おそらく、このような言葉を発する人も悪意があってつぶやいたのではなく、被災した自分と比べて自然と口から出たのだと思います。ですが、その言葉は運よく災害から逃れた人からしますと「後ろめたい気持ち」にさせるものです。人の感情とは難しいものです。
 人間は神様でも修行を積んだ修行僧でもなく、心がきれいな天使でもありません。いつも迷い憂い、試行錯誤しながら生きています。そのような人間が他人と自分を比べて落ち込むのは致し方ないことです。誰も人間を非難することはできません。だからこそ、、、。
 仮に、自分が地震保険に入っていたとしても周りが再建できない中で「自分だけが住宅を再建して気持ちよく生活できるのだろうか」と僕は感じました。周りとの軋轢や不和が生じる確率が高いように思います。その確率は地震保険の加入率よりもかなり高い数字になると思います。
 結局、地震保険は加入率が最低でも70%くらいはいかないと意味をなさいのではないでしょうか。大分以前ですが、僕は阪神淡路大震災時に住宅ローンが残っていた人たちの金策について書かれた本を読んだことがあります。東日本大震災が起きるずっと前ですが、被災したときに住宅ローンを組んでいた人たちについて取材している本でした。
 細かな内容は忘れてしまいましたが、そのときの印象としては表向きは個人の負担としながらも、実質的には行政が主導して金融機関が負担することで終わったような記憶があります。僕が感じたこの印象には本を読んだ僕の推測も入っています。個人の負債を行政が救済することは間違っても公表することはできませんから実際のところはどうであったかはわかりません。
 マスコミが自慢げに使う言葉に「独占スクープ」があります。自分のところだけが伝えることができるという意味が価値があると思っているからです。ですが、「自分のところだけが伝えること」のどこに意味があるのでしょう。
 以前ある新聞記者出身のジャーナリストが「本当のスクープ」とは他社よりも早く伝えることではなく、「自分が伝えなくては歴史に埋もれてしまう出来事を見つけ出すのがスクープだ」と話していました。僕は「なるほど」と思ったのですが、その意味で言いますと、本当の意味でのスクープに最近は接していないように思います。
 単に早さだけを競うのは意味がないということですし、情報を独占して「自分だけ」が優位な立場を確保しようとするのもジャーナリストという立場からしますと健全な行為ではないように思います。
 自然界では弱肉強食は摂理です。人間も自然界の一員ではありますが、ほかの動物とは違います。単なる弱肉強食の世界から脱して弱者でも幸せを感じながら生きていける社会を作ることに人間の存在意義があるように思います。また、そのような気持ちになることができるのが人間とほかの動物の違いではないでしょうか。
 悲しいことに最近は親が子供を虐待死させるといった動物にも劣る人間がニュースになることもありますが、全体的には人間は動物よりも他者への労りの心を持っている生き物です。
 「自分だけ」が得をすることを望んだり富を独占することを願ったりするのも人間の一面ではありますが、それとは対極にある「みんなが幸せ」の考えが常に一定の割合で世の中に浸透していてほしいな、と願う今日この頃です。
 僕の学生時代は角川映画の全盛時だったのですが、そのひとつに「野生の証明」という映画がありました。そのときのキャッチコピーです。
「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」
(フィリップ・マーロウ)
 じゃ、また。




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