<戦争の大問題について>

pressココロ上




今週のコラムは丹羽宇一郎さんの「戦争の大問題」という本がきっかけになっています。もちろん安倍首相が改憲を目指していることも関係していますが、改憲か護憲かはともかく僕は若い人が改憲の是非について真剣に深く考えることを願っています。
改憲と護憲のどちらが正しいかは実際問題としてわかりません。おそらく誰にも正解をだすことはできないでしょう。なにしろ大学の教授や知識人や文化人や評論家といった専門家の人たちでさえ主張が異なっているのですから一般の人たちが正しい答えなど出せるはずがありません。
現在、シリアでは戦争が続いていますが、ニュース映像を見ていますと「穏やかで平和な暮らし」とは程遠い光景が映し出されていました。先日の映像では、10才くらいの子供が亡くなった子供を抱えてシリアの悲惨な状況を必死に伝えていました。国際社会に戦争を終わらせる努力を訴えるための映像でした。
ですが、正直に告白しますと僕はこの映像に共感することができませんでした。小さな子どもが爆撃された建物が立ち並び砂埃が舞い上がっている場所で援助または救助を訴えている映像です。この映像を見た時、僕は真っ先に「戦争広告代理店」という本が思い浮かびました。
この本については幾度かこのコラムで取り上げていますが、民族紛争で対立して民族の一方が国際社会から支持を得るために広告代理店と契約をした経緯を書いたドキュメント本です。
現在、世界の各地で起きている戦争や紛争において「善と悪」を決めつけるのは容易ではありません。ときには本当に悪い奴がいてその悪い奴が善良な人々を殺戮しているケースもあるかもしれません。ですが、多くの場合は「善と悪」は入り混じっています。ボブ・ディランさんが「正義の反対は別の正義」といった言葉がそのまま当てはまるのが世の中です。
このような状況で国際社会を味方につけるためにはイメージ戦略がとても重要になってきます。先の広告代理店と契約した民族はイメージ戦略が功を奏して国際社から支持(同情?)を得ることに成功しました。
僕が先のニュースで映し出された「小さな子供に亡くなった子供を抱えさせ訴えさせている映像」に共感を覚えなかったのはこの点にあります。わざわざ子供を登場させカメラの前で訴えさせているやり方に戦略を感じたからです。この映像には間違いなく大人の思惑がうしろでうごめいています。僕がこの一見するとかわいそうな子供の映像を素直に受け取れなかったのはこの「思惑」のためです。
いつの時代もそうですが、多くの人の支持を集めるにはイメージ戦略がとても大切です。もっと具体的に言うなら広告とか宣伝、今の時代ですとマーケッティングです。この成否が「支持の多寡」を決めます。
ブランドの価値もそうですし、ラーメン店の行列もイメージ戦略によって決まります。乃木坂46も欅坂46も、古いところではおニャン子クラブもモー娘もそうでした。政治の世界ではナチスが国民から人気を博したのもゲッペルス宣伝相の力が大きく貢献していると言われています。世の中で支持を集めるにはイメージ戦略が重要な要因となっています。
このような世の中において実状を知らない人間が正しい判断をするには広告や宣伝やマーケッティングに影響を受けないことが大切です。装飾されたニュースや報道ではなく真実、真相を見抜くことが大切です。
そこで「戦争の大問題」です。普通の善良な人で戦争を好む人はいないはずです。中には善良でない人もいる可能性は否定しませんが、そのような人は全体からしますと僅かです。つまり世の中のほとんどの人は戦争を好んでいません。ですから、現在の日本の平和憲法を支持しているはずです。日本は憲法において戦争放棄を明記しています。安倍首相はこれを変えようとしています。
このように書きますと僕が安倍首相の主張を批判しているように思うかもしれませんが、そうでもありません。やはり安倍首相が主張する「国家を守る自衛隊員が誇りを持って任務にあたるには自衛隊を憲法に明記すること」には一理あると思っています。命をかけて守ってくれていることを思うならやはり自衛隊員の気持ちも考える必要があると思うからです。
現実問題として他国が攻めてきたときに自衛の戦いはしなければいけません。護憲派の方々はこのあたりの論争を避ける傾向がありますが、戦ってくれる人が憲法できちんと認められていないのはどう考えても理不尽です。繰り返しますが、戦う人は命を懸けて任務を遂行してくれているのです。
黒沢明監督の「七人の侍」で侍を雇った側である村人も戦う覚悟を求められる場面があります。村を盗賊から守るには戦う人を雇うだけではだめで当事者も覚悟を持つ必要があります。
年末の討論番組でウーマンラッシュアワーの村本さんが「中国が攻めてきた場合、尖閣諸島は『明け渡す』」と発言して大バッシングを受けましたが、日本の領土は自分たちで守らなければ悲惨な社会になってしまいます。少し思い出すだけでわかりますが、昔欧米諸国が植民地支配をしていたときの支配された国の悲惨さは凄まじいものがありました。他国から攻められたときには戦う必要があります。しかし、「戦う」という状況は戦争です。
このように考えますと、戦争放棄を謳った平和憲法は改憲する必要がありそうですが、戦争をするということは先に紹介しました「小さな子供が亡くなった子供を抱えている」状況になることです。穏やかで平和な世の中とは正反対の状況です。しかし、だからと言って戦争をしないでいますと、植民地となり悲惨な社会になります。
やはりいざとなったら戦争をするしか術はないことになりますが、実は戦争状態になった時点で市井で暮らす人々の生活は悲惨な状況になっているのです。自衛のための戦争であろうともです。「戦争も仕方がない」と容認する人たちはそのことに思いが至っていません。
戦争状態なった社会というのは個人の自由が制限された社会です。国家の勝利が優先されますので個人は我慢をしなければいけないのです。そのような社会は健全ではありません。おそらく地位が高い者だけが得をする社会になります。例えば地域の班長さんなどが決められその指示が絶対となるでしょう。また役所の指示が絶対となり個人の自由などどこかに吹っ飛んでしまうはずです。
また、自衛隊という組織では上官の命令が絶対です。自衛隊とは軍隊です。それを忘れてはいけません。上官に逆らう人間は無能とみなされ排除されます。排除どころか懲罰を受けることもあります。さらに進むなら徴兵制もはじまるかもしれません。なにしろ国家を守ることが最も優先されるのですから個人の自由など有無を言わせずに制限されて当然です。
これが戦争です。
さて、僕が言いたいことがおわかりでしょうか。他国からの侵略を防げなくても悲惨な世の中になりますが、それ以前の侵略を防ぐための戦争状況になっても十分に悲惨な世の中になっているということです。
攻められたときに戦うのは勇ましく見え一見正しいように思いますが、その時点ですでに普通の善良な人々の穏やかで平和な生活は崩壊しているのです。
人間は自らが経験をしていないことを実感することができません。なぜなら「経験していない」からです。赤ちゃんに「ヤカンが熱いから触ったらダメ」と話したところで「熱い」のがどういうことかわかりませんので理解することができません。それと同じです。
戦争における悲惨な状況についても同じことが言えます。また軍隊という特殊な組織についても同様です。悲惨な状況の本当の実態を想像することは容易ではありません。若い方々はそのことを十分にわきまえたうえで考えてほしいと思っています。
今週はちょっと堅かった…。
じゃ、また。




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする