<「三度目の殺人」を見て思ったこと>

pressココロ上




僕が昨年あたりから気になっているニュースはジャーナリストに危害が加えられる事件が続いていることです。先週はブルガリアの女性記者が暴行されたうえに殺害される事件がありました。昨年末にも地中海の小国マルタでやはり女性ジャーナリストが殺害されています。女性だけに限りません。先週はトルコでサウジアラビアのジャーナリストがサウジ総領事館に入ったまま消息を絶っている事件が報道されました。ロシアでは永い間ジャーナリストが殺害される事件が起きています。
これらの事件に共通するのは、殺害された記者の方々が権力者を批判または追及していたことです。ドラマや映画などで見ることはありますが、現実に起きていることに小市民の僕としては驚かされます。しかし、よくよく考えてみますと、ドラマや映画になること自体がそれらの事件が現実に起きていることを示しているとも言えます。
ジャーナリストの使命は世の中で起きていることを社会に伝えることですが、その立ち位置の視点が権力者側にあるか生活者側にあるかで内容は変わってきます。もちろん、楽なのは権力者側の視点で伝えることです。しかし、それではジャーナリストの意味がなくなってしまいます。
権力者にしても生活者にしても、自分たちに「理がある」あることを訴えたいはずですが、権力者と生活者の力の関係からしますと圧倒的に権力者のほうが有利です。最近のジャーナリストの殺害はそれを示しています。この力の不均衡を修正するためにジャーナリストが存在する意義があります。そのジャーナリストに危害が加えられている現状は社会が不安定になるきっかけになりそうで不穏な空気を感じます。
日本はまだジャーナリストに危害が加えられるほど危険な社会ではありません。ですが、少しずつ少しずつジャーナリストへの圧力が強まりそうな雰囲気を感じます。もちろん、生活者の視点のジャーナリストに対してです。
いわゆる御用記者の方々が権力者寄りの報道をするのは当然ですので、生活者の視点のジャーナリストの方々の取材が制限されないようになる社会を望んでいます。そのためには生活者である私たちが関心を持つことが大切です。特に、多くの若いごく普通の人たちが政治や経済に関心を持つことが大切です。自由に暮らせる社会を作るのは国民一人一人の意識にかかっているといっても過言ではありません。若い皆さん、社会に関心を持ちましょう。
…てな、ことを思っている僕は昨晩「三度目の殺人」という映画を見ました。僕は「誰も知らない」以来の是枝監督ファンですが、なんとも重苦しい映画でした。基本的に、是枝監督の作品は弱者に寄り沿う映画が多く、観る人に考えさせる内容がが多いですが、今作は特にその傾向が強かった感があります。
結末が断定的に描かれていないのが大きな理由ですが、観る人により真実が異なっているように想像します。それにしてもこの映画にはいろいろな要素が積め込まれていました。古い話になりますが、かつて大手食品会社が起こした偽装牛肉事件も入っていましたし、古くて新しい問題である家族間の事件も入っていましたし、法曹界の問題点についても描かれていました。
僕的には、少し積め込み過ぎのような印象を持ちましたが、是枝監督がこれまで生きてきた中で、自分の中に溜まっていた問題を作品に入れたかったのかもしれません。裁判を扱った映画に周防監督の「それでもボクはやってない」という作品があります。この作品は冤罪について追及する内容でした。それに比べますと、「三度目…」は法曹界全体を俯瞰した問題提起のように思います。是枝監督は法曹界に対しても違和感を持っているのでしょう。
さらに深く考えますと、是枝監督は法曹界というよりも「人が人を裁く」という制度自体に疑問を投げかけているように思います。容疑者である三隅が意見を二転三転させているのはその制度の問題点をあぶりだすためとも取れなくもありません。死刑判決を受けたにもかかわらず裁判のあとに両手で重盛の手を握り締めて「ありがとうございました」とお礼を言う行為がそれを物語っているように思いました。
是枝監督は死刑廃止論者のようですが、この作品はまさにそれを主張しているとも取れます。「三度目」とは死刑制度のことです。このような作品を観ますと、僕はどうしても冤罪になりかかった事件を思い出します。
大きな事件でしたので覚えている方も多いでしょうが、2009年に起きた郵便不正事件です。この事件は一つ間違っていたなら冤罪になるところでした。なにしろ検察官が証拠を改竄していたのですから恐ろしい事件です。最初に結果ありきで捜査を進めるのですから公正な捜査が行われるはずがありません。
あと一つ思い出すのは1994年に起きた松本サリン事件です。このときは事件が起きた近くに住んでいた河野義行さんという方が容疑者として取り調べられました。河野さんの著作を読みますと、やはり結論ありきで捜査が行われていたようですが、このようなやり方で真犯人を捕まえられるはずがありません。河野さんの潔白は、翌年にオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたことで証明されましたが、もし地下鉄サリン事件が起きていなかったなら河野さんが犯人にされていた可能性もあります。
冤罪とは違いますが、裁判に関連して思い出すのは、現在は「知の巨人」として活躍している佐藤優氏です。佐藤氏の著書『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を読みますと、裁判というものが公平でないことを痛切に感じてしまいます。この本で「国策捜査」という言葉を知りましたが、人が人を裁くことの難しさを思わずにはいられません。
「国策捜査」という言葉から想起されるのはホリエモンこと堀江貴文氏や元通産官僚で投資家の村上世彰氏です。どちらも見せしめの意味合いがあったように感じるのは僕だけではないでしょう。
米国では来月中間選挙がありますが、僕が不思議なのはトランプ大統領を批判する報道があれだけあるにも関わらずトランプ大統領が居続けていることです。共和党の中からも批判的な意見が出ている中でトランプ氏が大統領でいるのが不思議でなりません。海を渡って伝えられる報道は真実なのでしょうか。本当に大統領に相応しくない人であるなら中間選挙では民主党が勝利するはずです。
もしかしたなら、来月の米国の中間選挙は民主主義が機能するのかを計るバロメーターになるかもしれません。
じゃ、また。




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